天国のRIKI

全てノンフィクション。あなたの周りにもこんなドラマが。

僕は6歳を超えすっかり大人になっていて、体重も15キロを超える中型犬としても大きいぐらいにまで成長をしていた。

去年の5月以来、ある事がキッカケで僕とおばあちゃんの間に一つの秘密が出来ていた。

ゴールデンウイークは遊園地の掻き入れで忙しく、お父さんお母さんは勿論、高校生になったお兄ちゃんも立派な戦力として仕事のお手伝いをしていた。

おばあちゃんは歳もとった事だからと、2年ほど前に長年守ってきた店をたたみ、自宅で呆け防止の為にもと経理の仕事だけをやっていた。

税理士の先生には「このお歳になられても、これだけの帳簿をやられるのは、たいしたものですよ」と、何時も誉められていた。

仕入れと売上の主だった所はお父さんがパソコンでやっていたが、経理関係は主におばあちゃんの仕事になっていた。

お父さんも仕事をやろうと言う、意欲のあるおばあちゃんを嬉しく思っていた。

お母さんは、店を止め家にいる事が多くなったおばあちゃんを、花見の時期になると声をかけ散歩に連れ出した。

朝の僕の散歩の折りに、一人で見るにはもったいないと思えるほどの満開の時期になると、梅、桃、桜、と夫々の花見に僕とおばあちゃんとお母さんとの三人連れの散歩をするのだ。

5月になると、近くにある新緑の植木の里を回り、ちょっとした森林浴を楽しんだ。

おばあちゃんもとても喜んでいた。

僕の身体が大きくなりぐいぐいリードを引っ張る力が強くなり、引きずられそうになるとお母さんがおばあちゃんに必ず言う言葉があった。

「危ないから、もう絶対おばあちゃんはリキの散歩はさせないでね」と、注意をするのである。

僕の小さい頃は、お父さん達の仕事が忙しい時「私が、やっておいてあげる」と、僕のお散歩のお相手をかって出た事もあったからなのだ。

 

ゴールデンウイークの最後の日、今日はスタッフ皆で打ち上げをやるから3人は遅くなると言われ、僕とおばあちゃんでお留守番をする事になった。

10時を過ぎて、皆が何時に帰ってくるか分からないからと、僕をお散歩に連れていってくれた。

我慢して待っているのが可哀想だからと言う僕への思い遣りと、疲れて遅くに帰って来てからのお散歩が、お父さんに大変だろうと言う両方の思い遣りで、お母さんやお父さんにされている注意を破っての決断であった。

おばあちゃんは僕とお散歩に行く時は「ゆっくり行ってな。引っ張らんといてや」と、何度も何度も繰り返し話しかけながら出かける。

僕も何時の間にか承知をしていて、何時もの半分ぐらいの距離を同じぐらい時間をかけて回ってくる。

その日も同じように、ゆっくりペースでお散歩をしていた。

おばあちゃんも僕が何時もと違うゆっくりペースでいる事を信頼し安心していた。

緩やかな坂道を下り、何時もウンチをする辺りでウンチをし、おばあちゃんが後始末を終えホッとした時である。

直ぐ前の垣根から急に猫が飛び出し、驚いた僕が反対方向に逃げ出そうとした時、リードを思いも掛けない方向に引っ張りおばあちゃんを転ばしてしまった。

おばあちゃんが咄嗟の時、僕が道路に飛び出せない様にと、リードの輪の部分を手首に通していたのが仇になったのだ。

転んだ拍子に手のひらと膝に怪我をさせてしまったのだ。

夜でもあり、周りに人目もなかったので、おばあちゃんは自力で立ちあがり、膝と手の泥を叩き落としていた。

転んだ場所が、歩道から少し空き地に入った土の地面だった事が幸いした様だ。

僕は申し訳なさそうに、おばあちゃんに寄り添った。

かなり痛かった様だが、気丈なおばあちゃんは、「大丈夫え、お父さんには内緒にしとこな」と、怪我を隠す算段を僕に持ちかけていた。

おばあちゃんも立ち上がる事が出来て何処かホッとしていたのだ、と言うのも骨粗しょう症が進んでいるので骨折には気を付ける様にとお医者さんに言われていたのである。

少しビッコを引きながら家に帰ったおばあちゃんは、怪我の消毒をし、シップを貼って先に床に就いた。

リビンクのテーブルには「リキの散歩は済ませました」のメモ書きが置かれていた。

 

翌朝シップを貼っている所を家族に見つかり、問い質されたがおばあちゃんは、決して僕が怪我をさせてしまったとは言わずに、躓いて転んだだけだと言い張っていた。

それでも、きっとリキの散歩で転んだに違いないと推測され、皆の役に立とうとした事への行為には感謝されつつも、くれぐれもリキの散歩だけはしない様に念を押されていた。

僕とおばあちゃんの仲は、内緒の秘密が出来てから一層仲良くなった。

その頃、おばあちゃんが家にいられる様になった事で、今度はお母さんが殆ど毎日遊園地の仕事に出る様になっていた。

昼間はおばあちゃんと二人だけのお留守番の日が殆どである。

真夏のうだる様に暑い日、冬の底冷えのする日等は、エアコンの効いたおばあちゃんの部屋へ招き入れられ過ごした。

元々室内犬でない僕の毛は、シーズンの変わり目だけでなく、1年中生え変わる様になり、家中に僕の毛が舞うようになってしまった。

家族の誰もが、ちょっとオシャレをして出かける時は、ガムテープが必需品になってしまっていた。

お父さんは冗談に「家中のリキの毛を暫く貯めておいたら、立派なセーターでも出来そうだなあ」と、言う始末である。

家族に掛けてしまっている色々な負担も、僕が家族の一員だと言うことだけで当たり前の事として受け入れられているのだ。

 

この頃食べ盛りの僕の夕飯タイムは3段階あった。

リビングで3人が食事をする時、食卓に食事が並び始める前に、階段の上がり口に僕用の食事が用意される。

そして、皆が一緒に食事を始める。

用意された第1段階のドッグフードを先に食べてしまうと僕は、食卓のお父さんの席の傍にお座りをして、おかづのお裾分けを待つのである。

ほんの一口だが、お父さんから貰うと今度はお母さんそしてお兄ちゃんと、一口ずつ貰うのだ。

僕と同じ様に食べ盛りのお兄ちゃんが最後に食事を終えると、「ごちそうさま」と、言ってから僕に「リキ、もう無いよ」と、お裾分けの無い事を両手を広げて告げ、第2段階を終える。

お酒を飲まない夕飯は15分位で終わってしまう。

それから、僕はリビングの下へのドアの前で、開けてもらう様せがむのだ。

誰かに開けてもらうと、階段を降りおばあちゃん部屋へ行く。

若い連中と年よりじゃ食べ物も違うし、ゆっくり晩酌を楽しみたいからと、おばあちゃんは自分の食事を部屋の前のミニキッチンで作り、一人で食事をとっていた。

お仏壇の前に置かれたやぐらコタツの、入り口側に座椅子が置かれ、奥のテレビを見る向きで食事が用意されている。

お仏壇の向い側には古いバスタオルが2つ折りにして敷かれ、その前のコタツの食卓に白い陶器の取り皿が用意されている。

これと言った趣味を持たないおばあちゃんが、唯一の毎日の楽しみの晩酌を始める。

僕のカシャカシャと言う爪の音がすると、おばあちゃんはドアを開け僕を部屋に入れてくれる。

僕はいつもの様に古バスタオルの上にお行儀良く座り、おばあちゃんのお箸の行方を追う。

から揚げを半分かじっては食べ、残りを僕の前の白い器の上に置いてくれるのだ。

僕は黙って待つ。

第3段階の始まりである。

「リキ、よしっ」と、おばあちゃんが言ってくれると初めて、僕はペロリとそれを食べる。

ゆっくりとした晩酌付きの夕食の間中これが続くのである。

僕の座高は60センチ余りにもなり、僕がおばあちゃんのお箸の行方を追うと、それは催促になり、何かを器に入れてくれる。

応答の無いテレビだけを相手に食事をするのでなく、僕に「おいしいか?もっと食べるか?」と、しゃべりながらの食事はおばあちゃんも楽しげで、僕もとても嬉しい。

お父さんが食事を終え一休みして帳簿の事務処理をと、おばあちゃんの部屋の横のパソコンルームに下りてくる時、この様子を見つけてニコニコしながら「おおっ、リキ、晩酌のお相手ですか。あまり食べ過ぎない様にね」と、ちゃかして行くのである。

リビングでの食事が自分の得意な物で無く、なんとなく物足らない感じのお兄ちゃんも一緒に、おばあちゃんの夕食のへずりに参加することもあった。

こうして僕の食事の3段階は終了する。

お母さんは「食べ過ぎにならないでね」と、そればかり気にしているが、幸いお腹の部分のきゅっと引き締まった体型は、またまだ維持できている様である。

 

  アメジスト(家族愛)

2月に入って僕の食欲は少し安定している。

足の衰えは一段と進んだ感じで、一人で起き上がる事はおろか、同じ姿勢で立っている事も困難になって来た。

朝晩の食事はしっかり取れるのだが、お父さんかお母さんに身体を抱えてもらっての食事である。

後ろの左足の筋肉がすっかり無くなり、すぐに内側に曲がってしまい、立ちあがると50センチにもなる背丈を支える力が殆ど無いのである。

前足はまだ突っ張ることだけは出来るので、身体の後ろ半分を抱えて貰っての食事である。

今は以前のような顆粒のドッグフードと缶詰のドッグフードの混ぜ合わせた物ではなく、僕の好物の粗引きのソーセージか鳥のから揚げを電子レンジでチンした物を細かくちぎって混ぜてもらった顆粒のドッグフードを食べている。

脂が多いからと以前は与えてもらえなかったのだが、食欲が落ちた時なんとか食べさせようとお母さん達が考えてくれた食事である。

少し嗅覚も衰えていて、用意された食事の前に行っても、直ぐに口にする事が無い。

片手で僕の身体を支えながら、もう一方の手で食事の入った器を僕の鼻先まで持ってきてもらい、やっと食べ始めるのだ。

僕が食べ始めると食道が開く様にと、ゆっくり器を下に下ろしてもらっている。

そして、その器も床から10センチ程の台の上に乗せられている。

これは、口元を床まで下げる姿勢が長続きせず、最後まで食事を取れないせいで、水を飲むのも殆ど器を持ってもらっていないと飲めなくなってしまった。

こんなに手間を掛けてしまっている今の僕だが、お父さんお母さんは食事を取れなくなってしまった時より食欲のある事を喜んでくれている。

只夜鳴きによる寝不足だけは二人を本当に困らせている様だ。

 

身体の自由がきかなくなってから、僕は誰かが傍にいてくれないと安心して眠れなくなっている。

一人で立ち上がる事が出来なくなって、常に不安が付き纏う様になってしまった。

オムツはしてもらっているが尿意をもようしたりすると、やっぱり立ち上がりたくなる。

そして、空腹や、喉の乾きを感じても先ず立ち上がりたくなる。

横になった姿勢を変えるにも、後ろ足の力がなくて思う様にならない。

後ろ足を上手くたたむ事が出来なくなった事で、お座りの姿勢も維持できない。

只々横になっているしかないと言う事は、僕にとってもかなり辛い事なのである。

痛みを感じない態勢に身体がおさまると、なんとなく眠ってしまう。

それも、自分でその態勢を取るので無く、お父さんかお母さんが手を添えて姿勢を色々と変えてもらっての事である。

 

横になっている僕が頭を持ち上げると、傍にいてくれるお父さんかお母さんが「どうした?」と、声を掛けてくれる。

目もはっきり見えなくなってしまった僕は、声のする方へ目を凝らす。

一生懸命その姿を探していると、二人のどちらかが手を差し出し身体を撫でてくれる。

誰かが居てくれる安心が得られて又横になる。

何かの欲求がある時は、撫でてくれた手を頼りに起き上がろうとする。

直ぐに手を差し伸べてもらえないと、唸り声を出してしまう。

差し出された手を頼りに立ち上がると、腰の所を支えてもらいながらうろついたり、水を飲ましてもらったり、食事をさせてもらったりする。

時間とタイミンクを見計らって、「オシッコかな、ウンチかな」と、僕を抱き上げ裏の駐車場へ連れ出してもらう。

ゆっくり地面に下ろされると、しっかり4つの足で踏ん張りきれず、特に弱っている左の後ろ足が上手く前に出ず、その場をくるくるとヨタヨタ歩きで回ってしまう。

腰に手を添えてもらってバランスが上手く取れると、後ろ脚をゆっくり屈めオシッコをするのだ。

ウンチは更に脚を屈め腰を丸めなければならないので、なかなか上手く出来ない事が多い。

1日5、6回トライして2、3回上手く行けば良いほうである。

それでも、やっぱりオムツにおもらしするより気持ちが良く、とてもスッキリする。

それを分かってくれていて、お父さんもお母さんも上手く行くと、とても喜んでくれて誉めてくれる。

腰を折って僕を支えるのが腰痛に響くらしいのだか、それに堪えて何度でも連れ出してくれている。

上手く行った時は「出て良かったね」と、顔に頬擦りまでして、僕を抱き上げ連れ帰ってくれるのだ。

 

ここ2、3週間は夜の眠りの方が浅く、2時間おきに目が醒めてしまう。

昼間は5、6時間程眠る事もあるのに、夜中になるとそれが出来なくなってしまった。

よく昼間と夜を取り違えていると言われるが、正にそれである。

僕にしてみれば、昼間はお母さんが週2回の出勤日以外は家に居てくれて、僕の世話をしてくれる安心があり、テレビかラジオの音が人の気配を感じさせてくれ、それに昼間の明るさも不安を和らげてくれてなんとなく安心を得る事が出来るのである。

夜僕が眠っていると、お父さんが電気を消し寝室へ上がって行ってしまう。

なんとなく物音がしなくなり、不安になり目を覚ます。

暗闇だと不安は更に広がり、誰かを呼びたくなり唸ったり吠えたりしてしまうのだ。

最近では夜二人が上へ上がって行きそうな時間になると、敢えて眠ろうとしなくなっている。

寝かしつけられそうになると、なお更抵抗する様に頭をもたげ、一人になりたくない事を訴える。

身体の自由がきかない事による不安は、誰かに甘えるより仕方がないのだ。

お父さんは腹をくくり、添い寝をして僕の眠りがある程度深くなってから上へ上がって行くようになった。

そして、キッチンの蛍光灯を点けたままにしておいてくれている。

それでもやっつぱり2,3時間で目が醒めてしまい、唸ってしまう。

今度はお母さんが降りて来て、僕の面倒を見てくれる。

今はこんな毎日が続いているのである。

 

以前僕がこの家に来て家族になり、色々な躾を教わり、それを習得出来ると皆が誉めてくれた。

お母さんも「この子は本当におりこうさんで、助かるわ」と、喜んでいてくれた。

そして家族の誰もが僕の表情を良く見抜ける様になっていた。

1年に何回か、皆の居ない間に何か悪さをしたり、オモラシをしてしまうと、顔に出るらしく「あらっ、リキ、何かしたでしょう」と、悟られてしまうのだ。

特にお腹を壊してオモラシをしてしまった時など、申し訳なさそうな顔をするらしく直ぐに発見されてしまっていた。

家族だから分かり合える、ほんの僅かな表情の変化をお互いに理解し絆を深めていた。

僕の表情がそれまでにないくらい、申し訳ないと言う表情に変ってしまった事件が10年程前に1度だけあった。

 

 

僕は以前、2歳半ぐらいの時に一度家族の介護を受けた事がある。

室内犬として育て、子供をとる気が無ければ去勢手術をした方が良いと、獣医さんに進められ、春前に僕は手術を受けた。

手術は問題無く上手く行き、すっかり元気になり、朝晩のお散歩も、家の中の階段も自由に上がり下がり出来ていた。

トイレもお散歩の時にしっかり出来ていて、僕の身体のリズムもすっかりそれになじみ、夜の10時間分と昼間の14時間分を夫々の散歩中に排泄するサイクルは、2、3時間のずれぐらいはしっかり我慢が出来る身体が出来あがっていた。

 

2ヶ月程経った入梅間近となった時、朝のお散歩で便がゆるいなあとだけ感じていたお母さんが、お昼前に僕が玄関まで降りて、お散歩の時に何時も着けてくれる首輪とリードの前で吠え、何かをせがむので「どうしたの、リキ、又オシッコなの」と、表へ連れだしてくれた。

僕は必死にリードを引っ張り、出て直ぐの道端でいきなり下痢をしたのである。

おもらししそうなのを必死で我慢していた僕は、出る物が出た感じでホッとして、お母さんを見上げた。

お母さんが『おおっ、良かったね』と、言う顔してくれていると思ったら「あらっ、大変、血が混じってるじゃない」と、顔色を変えていた。

「リキ、どうしたの、大丈夫。お医者さんに行かなくちゃね、歩いて行ける」と、本気で心配している様である。

下血の量が相当な物だったのだ。

お母さんは僕を、玄関ドアにリード縛って入り口に座らせ、バケツに水を汲んでその便をドブへ流しホウキで路肩を洗った。

そして、その足で僕を獣医さんへ連れて行ってくれた。

 

2、3ヶ月前に手術をしてくれた、肝っ玉母さん風な女の獣医先生は、すっかり元気になっていると思い込んでいた僕が担ぎ込まれ「どうしたの?リキちゃん」と、驚いていた。

お母さんが、今来る途中にも、路肩の土の上に少し下血をした事と、今朝からの症状を話した。

先生は、ここ何日間の僕の食事と様子を聞いて「ふーん、パルボかなあ」と、頭を傾げていた。

そして、注射と点滴をうちながら、パルボと言うのはペットの伝染病で、腸の内壁を爛れさせる怖い病気で、体力がなければ死に至る事もある事をお母さんに説明した。

更に、現在この地域ではパルボが発生したと言う保健所からの報告は無いが、感染した可能性も否定出来ない事も付け加えた。

点滴をうたれている間、おとなしくしていた僕に「何時もの元気がないねえ」と、先生も心配そうに話しかけた。

治療を終えた帰り道、家に向う緩やかな上り坂を、何時もなら力強くリードを引っ張り気味に歩く僕が、なんとなく力なく引かれて後から着いて行く様子に、お母さんが

「どうした、リキ、元気ないか。ほらっ、おいで」と、10キロ以上にもなった僕の身体を抱いて連れて帰ってくれた。

リビングに下ろされた僕は、ぐったりと横になった。

何時もなら、後ろ足をたたみ、お腹を下にして少し身体を曲げ、前足に顎を乗せる態勢で昼寝をするのだか、4つの足を力なく横に投げ出し、お腹も横にして身体をベッタリ床に横たえた。

お母さんはその様子になお更心配になり「大丈夫、リキ、」と、居ても立っても居られない様子で、お父さんに電話をしていた。

「出来るだけ早く帰るよ」と、お父さんは言ってくれた様だ。

 

点滴が効いたのか、少し眠れた僕が新たな人の気配で目を覚ましたのは、夕方になってからであった。

中学生になり、子供からすっかり少年になったお兄ちゃんの、部活を終えての遅い帰宅時間である。

これぐらいの年頃になると、結構家族には素っ気無くなるものらしいが、ウチのお兄ちゃんに限ってそれはなかった。

学校の事、友達の事、部活の事、そして先生の事と何でも、家族の誰にでも話せていた。

お父さんも仕事の事を子供には分からなくていい事とはせずに、色々と話をしていた。

僕と言う存在は、家族の絆を分かり易い物にし、夫々が尊重し合えるものにしている様である。

僕に対する愛情表現を照れる事無く出せる事が、家族の中では素直になることが一番である事を悟らせているのだ。

 

「どうしたのっ、リキ、大丈夫なの」と、お母さんの報告を聞きながら、お兄ちゃんが本気で心配をし始めた。

お兄ちゃんは何時も、夕飯までの一時を僕との戯れの時間に費やし、疲れた僕がソファーに伏せると,横に座って僕の耳をクリクリしながらテレビを見て、心のリフレッシュを計るのである。

僕がお相手出来ない今日は、お兄ちゃんもつまらなそうだ。

お母さんと二人で、僕の傍でしゃがんで顔を見合わせ「大丈夫かなあ、どうしょうもないの?」と、お母さんに問い詰める。

お母さんは「点滴も打ったし、様子見るしかしょうがないでしょうねえ」と、居ても立っても居られずお父さんに電話をした時より少し落ち着いて見せている。

そこへ、お父さんが帰って来た。

迎えに出たお母さんに「どう、まだ下痢は続いてる?」と、お父さんが聞きながら上がって来た。

ぐったりと横になったままの僕を3人で屈んで見下ろしている。

「先生は薬が効けば下血も収まると思うけど、ダメなら電話して頂戴と言われてきたんだけど、取り敢えず今の所は落ち着いてるみたいねえ」と、お母さんが状況を話した。

「そうそう、それと絶食、今日は水も遣らないでって」と、お母さんが付け加えた。

「ああ、あっ可哀想に、リキ」と、お互い育ち盛りのお兄ちゃんが言った。

3人の真中で横たえた身体は、目にも勢いがないらしく、皆を更に心配させている様である。

眠りから覚めたせいか、又お腹がぐるぐるし始めて、僕は立ち上がろうと首をもたげた。

「どうしたの、リキ、起きるの」と、お父さんが手を添えてくれた。

僕は急き立てられる様に、リビングのドアの方へ向った。

「あらっ、又出るのかな?」と、お母さんが僕の表情を読み取り、ドアを開けてくれた。

「よし、よし、じゃ行ってあげよう」と、お父さんが降りて来て玄関で首輪とリードを着けてくれて、玄関のドアを開けてくれた。

火事場のくそ力と言うのか、勢いのない僕がリードをぐいぐい引っ張り、玄関を出て直ぐの通りの向い側の道端の叢にお父さんを連れ出した。

そこでいきなり何時もの排便の態勢を取る間もなく、激しい下痢と下血をしてしまったのだ。

「おうっ、リキ、我慢してたの、可哀想に、大丈夫か」と、お父さんが僕の顔を抱き寄せてくれた。

後を追う様にティッシュを持って出て来たお母さんが「やっぱり、又出ちゃった、辛かった?」と、心配そうに言った。

「先生に電話しないと駄目かな」と、噴出した下血の痕跡を見てお母さんが言った。

「そうだなあ、ここをこのままにしておいて、先生に見てもらおうよ」と、お父さんが言うと

「そうねえ、じゃ電話してくるわ」と、お母さんが急いで戻った。

 

少し経って、お兄ちゃんが「先生がすぐ来てくれるって」と、お母さんの電話の結果を知らせに出て来た。

「あっ、そう、そりゃ良かった、じゃもう落ち着いたみたいだから、お兄ちゃん、リキを中へ入れてやって。」と、お父さんは少しホッとした表情で言った。

「わかった、お父さんはどうするの?」と、お兄ちゃんが聞いた。

「ここを、先生に見せてから洗い落とさないといけないから、それまで他の犬が近寄らない様に見張ってるよ」と、伝えた。

お兄ちゃんは「じゃ、リキ、ほら中へ入ろ、おいで」と、リードを受け取り僕を連れて入った。

足を拭いてもらい、首輪を外してもらって、リビングへの階段を後ろから押してもらう様に上がった。

お母さんはソファーの前に古いバスタオルを二つ折りにして敷いていた。

「はいっ、リキ、すっきりしたか、こっちおいで、ここでねんねしなさい」と、僕を招き寄せ寝かせてくれた。

僕は何時もならこんな時間に、「ねんねしなっ」と、言われても寝るわけもなく、食後の運動とばかりに誰かお相手を見つけてジャレ合っているのに、さすがに今日はお母さんに言われるままに、バスタオルの上にグッタリと横になった。

 

10分程で女先生が来てくれた。

表でお父さんに排便と下血の様子を聞き、その痕跡を確認して来た先生の表情も、少し深刻そうであった。

僕が横たわった前のソファーに座り、少し様子を見ながら、徐に聴診器を取り出し、診察し始めた。

糞便と下血の後処理をし終えたお父さんが上がって来た。

暴れたりいやがることも出来ずに診察を受けている僕を、3人の家族が心配そうに見守ってくれていた。

「ふーん、そうねえ、注射を一本打っておきましょう」と、先生が注射の用意をし始めた。

お母さんが僕の傍らで「大丈夫よ、直ぐ終わるから」と、何時もの注射の時はしっかり押さえ気味に僕を抱くのを、寝たままの僕の体を摩りながら介助してくれた。

お父さんが「どうですか?」と、先生に聞いた。

「そうねえ、心臓その物は今の所しっかりしてそうだから、下血さえ収まってくれればなんとかねえ」と、先生が答えた。

「今夜このまま眠れますかねえ」と、お父さんが聞くと

「一応、安定剤も打っておいたので、大丈夫でしょう。」と、先生が答えた。

「まあっ、リキちゃんはこんなに大事にされているんだから、幸せよ。ねっ、リキちゃん、頑張ってね」と、先生は診察を終え帰って行った。

先生は帰り際に、「良くなるのも、悪くなるのも、今夜が山でしょう」と、言い残して行ったのだ。

会話の一部始終を聞き漏らすまいと、口を開いた人への目配りで一生懸命だったお兄ちゃんが「リキ、頑張るんだよ、いいね、しっかりするんだよ」と、言葉にならない思いを必死に僕に伝えていた。

その日の夕飯は、何時ものおばあちゃんのお迎えの後の遅い時間に、僕が寝静まっている間に家族で簡単に済ませた様である。

おばあちゃんもお風呂に上がってくる時に僕を覗きに来て、「可哀想になあ、しっかりしてや」と、声を掛けて行った。

12時前にお父さんが「オシッコだけしておこうか」と、裏の駐車場へ連れて行ってくれた。

又、下血したらと言う不安を持ちつつ、ゆっくり眠れる様にと連れて行ってくれたのだ。

幸い下血もなく、オシッコだけを済ませて部屋に戻った僕は、又直ぐ力なく横になった。

薬も効いていたのか、直ぐに眠れた。

 

僕達4つ足動物は、体調が悪いとその体力を出来るだけ温存し、自然治癒出来る様その身を守るのだ。

食べ過ぎだったり、胃にもたれる物を食べてしまったりすると、道端の草の中から排便を促す物を探して食べたり、土を舐めたり、本能が教えてくれる治療を施すのである。

道端に落ちている物を口にする事は絶対許されない僕も、草を探して食べたりすると「あれ、又食べ過ぎかな?」と、家族もその習性をよく理解してくれていて、食事の量等調整してくれる様である。

只困るのは除草剤を蒔く時期である。

道端の匂いを嗅ぎ回る習性のある僕達は、除草剤その物を口にする事は避けられるのだが、鼻の周りにくっつく事があるのだ。

除草剤が顔にくっつくと、顔の相が変ってしまうのだ。

眼の下が弛んだ様になり、口の周りに皺が出来、目が引きつれた感じになり、家族ををびっくりさせてしまうのだ。

元気を失うまでの事はあまり無いが、少し様子が変ってしまうので、お風呂嫌いの僕は、お母さんに顔を入念に拭いてもらうのだ。

今度の具合の悪さは、今までに無いもので、原因も分からず、家族の皆を本当に心配させてしまっている様であった。

 

家族の思いが僕の体力と生きる力になり、病魔に克つのにはそれ程日数はかからなかった。

お父さんが又寝不足だったのは言うまでも無いが、心配のあまりに生まれた家族の中の素っ気無さも、僕が元気を取り戻すのと反対に薄らぎ、元の暑苦しいまでの家族愛が満ちて来た。

僕は4人の家族夫々に一生懸命伝えた「ありがとう、心配させてごめん、もう大丈夫、僕幸せだよ」と。

そして、今まで以上に皆も分かってくれた、僕の命が輝いている事を。

  ヘマタイト(生命力)

平成19年2月3日今日は節分である。

夜になって毎年お兄ちゃんとやっていた豆まきを、今年から新居を構えたお兄ちゃんに代わりお母さんとする事になったお父さんは、どっちが「鬼はー外、福はー内」の掛け声を出すかで少し揉めながら、交替でやっていた。

家中の窓と出口を一つづつ開けては『鬼はー外」、閉じては「福はー内」と、豆蒔きをする。

そして、年の数だけ豆を食べるのだが、ここ何年かは食べなきゃならない豆の量に少しへきへきしている二人ではある。

それから、同じ数だけの豆をティッシュに包み、それで身体の具合の悪い所を摩り、終わるとその豆の包みを頭の後ろへポイッと投げるのである。

これは、京都地方の風習らしいのだが、僕も毎年参加している。

今年は、お母さんが豆を17個ティッシュに包み、「はいっ、リキ、今年は摩る所がいっぱいあるねえ」と、その包みで身体中を摩り、僕の身体を支えて立たせ後ろへポイッと投げてくれた。

悪い所を豆に吸い取ってもらうと言う意味があるらしい。

終わった豆の包みをお父さんが拾い集め、神棚に納めに行き、一年の家族の健康をお祈りするのである。

今年は特に僕の身体の事をお祈りしてくれていた様だ。

 

昨日の夜中もお父さんお母さん2人共、交替で起こしてしまった。

僕の夜鳴きのせいである。

去年の秋頃の急な衰えは、年を越せるかなとまで心配されたが、まだまだ命の輝きだけはしっかりと持ち続けている。

ここのところ、夜の12時を過ぎる頃には、お母さんが「又、どうせ夜中に起こされるんだから、先に寝るね」と、僕をお父さんに頼んで先に床に就く。

頼まれたお父さんは、昼間寝過ぎるせいか、夜になると中々寝付けない僕を、添い寝までして寝かしつけてくれる。

去年の暮れには、足もすっかり衰え、何よりも好きだった朝晩のお散歩も、裏のマンションのフェンス沿いに、ヨタヨタと寄りかかりながら40メートル程歩いての往復がやっととなっていた。

お父さんは、そんなそろーりそろーりの夜のお散歩の時、ふっと53歳と早死にだった自分の父親を思い出したりしていた。

自分の父親も、こんな風に老いるまで生きていてくれてればなあと。

 

今はもうリードも必要なくなって、付き添ってくれるお父さんかお母さんが、道路側に僕がよろけない様にガードしながら、側溝の小さな穴に足を落とさない様にと、足先で蓋をしながら横歩きでのお散歩である。

よろけながら後ろ足を少し屈めてオシッコをするだけで「よかったね、おおう、出た出た」と、安心してもらえるのである。

ご近所の70過ぎぐらいのお爺さんには、「おうっ、頑張ってるねえ」と、僕の姿を見て自分の身を奮い立たせる様な言葉を投げ掛けられる。

お爺さんに「人で言うと100歳近いかねえ」と、聞かれたお母さんが、

「そうねえ、90は超えてるでしょうねえ」と、僕への労わりの気持ちを精一杯込めて答える。

「ほうっ、そう、頑張ってね」と、お爺さんはスニーカー姿でさっそうと立ち去る。

お母さんもお父さんも、こんなにヨボヨボになってしまった僕を、むしろ誇らしげに外へ連れ出してくれる。

ここまで一緒に暮せた事への感謝と喜びが、そうさせているようだ。

1日中部屋の中で、殆ど寝たきりの僕にとっても、外の空気は寒さを感じる以上にスッキリするものである。

それでも、足が痛くて立ち竦んでしまうと「もう疲れちゃったかな、足が痛いかな、じゃ、帰ろっ」と、抱き上げて連れ帰ってもらう。

今の僕には充分な精一杯のお散歩である。

 

僕が生まれて間もない頃、この家に来た時は、おもらしした時用の古新聞紙が敷き詰められたリビングに、今は荷造り用のクッション材が何重にも敷き詰められ、角には1メートル四方程のスポンジ入りマットが敷かれている。

回りの家財道具は床から50センチ程段ボールでガードされている。

僕がよろけてぶつかり怪我をしてしまうのを防御する為である。

まだなんとか一人で立ち上がる事が出来た時、誰も傍にいないと、ゆっくり座って横になるだけの脚力が無く、ドターンと所かまわずひっくり返ってしまうのだ。

特に弱っている左側を下に倒れると、必死にもがき、ぶつけて怪我をした個所を更にぶつけて、血だらけになってしまう事がある。

買い物から帰って来て、そんな僕を見つけたお母さんを、びっくりさせ、悲しがらせた事もしばしばあった。

ここのところは、お母さんが出かける時に、又怪我でもしないかと言う心配はあまりしなくて良くなった。

只それも、更に足の力が無くなり、僕一人では起き上がる事が出来なくなってしまった為で、喜べる事だけでは無いのである。

夜中の夜鳴きもそのせいで、寝返りが出来ずに、同じ姿勢を変えたくて、つい唸ったり吠えたりしてしまうのである。

先に起こされてしまったお父さんかお母さんが、リビングに降りて来て、介護してくれるのだ。

 

僕がこの家に来た次の日、ここのところお母さんがとても親しくしているお友達のSEさんから、お昼前に電話が入った。

「今日は居る?」と、この時期でない土曜日には、お母さんも遊園地へ仕事に出ている事を知っているSEさんが

「おいしいパン屋さん見つけたの、一緒に行ける?」と、お誘いの電話をしてきたのだ。

土曜日なので、お兄ちゃんがお昼過ぎには帰ってくるが、お父さんも、おばあちゃんも仕事に出かけ、炊事洗濯と午前中の家事を終え、一人で退屈しそうな時間を見計らってのお誘いである。

「あら、そう、いいわねえ。」と、何時もなら二つ返事でお誘いに乗るお母さんである。

「いいわねえ、でも、ちょっとチビちゃんがいるのよねえ」と、お母さんが、ここへ来てまだ2日目の僕に視線をやりながら応対している。

「ええっ、だってNちゃんは学校でしょう。」と、同学年のお子さんを持つSEさんが聞き正した。

「そう、実は昨日からここに子犬が居るの」と、お母さんは昨日の出来事を話し始めた。

色々と経緯を聞かされたSEさんは「可愛いでしょうねえ、」と、電話口から想像できる僕の愛らしさに堪らなくなり「ねえっ、見にいっても良いっ」と、次の言葉を投げ掛けてきた。

「いいわよ、来て来て、だけどパン屋さんは」と、本当は僕を見に来て欲しい思いの方が強かったお母さんはその気半分で聞きなおした。

「あらっ、そんなの今日じゃなくても良いのよ。じゃ、これから直ぐ行くわね」と、SEさんは電話を切った。

お母さんは、今日は朝から、お兄ちゃんとお父さんを送り出した後、早速真新しい首輪とリードを着けて、僕との始めてのお散歩を楽しんだ。

そして、リビングで家事をするお母さんをチョコチョコ後追いする僕に、

「ほらっ、リキ、気を付けて、踏んじゃうよ」

「リキ、ご飯は食べたの」

「良い子だねえ、いっぱい食べたねえ、お水は」と、時々しゃがんでは楽しそうに話し掛けるのである。

何時もなら、皆を送り出した後、誰かが帰ってくるまで無言のまま過ごす事の多い時間帯に、この上ない話し相手の出現となっている様だった。

この楽しい気分にさせてくれる僕を、誰にでも自慢したい気持ちだったのだ。

 

10分も経たないうちに玄関のチャイムが鳴った。

応対に玄関へ行ったお母さんが、同年輩ぐらいのSEさんを連れてリビングヘ上がってきた。

周りに敷き詰められた新聞紙の上をチョコチョコ歩き回る僕を見つけSEさんは「あらーっ、可愛いわねえ、生まれてどれぐらなの、何犬、名前は」と、矢継ぎ早の質問をお母さんに投げかける。

お母さんは「リキって言うの、そうねえ、雑種でしょう」と、名前以外はあやふやな返事をした。

「リキ、おいで」と、お母さんがしゃがんで僕に呼び掛けた。

僕は差し出されたお母さんの両手の方へ駆け寄り、胸元に抱き上げられた。

「あらーっ、分かるんだ、こんなに小さいのに、可愛いねえ」と、SEさんが羨ましそうに、目は僕に釘付けのままで話した。

二人の会話が弾み始めて、僕への注目が少し柔らんできたところで、僕は居眠りをし始めてしまった。

お母さんの腕の中で眠り始めた僕を、SEさんは堪らないという目で見つめていた。相当の犬好きの様である。

 

10分程経ったところでお母さんが遊園地のお店にいるお父さんに電話をしていた。

「もしもし、SEさんが子犬見たいって、まだ居るよねえ」と、お母さんが言うと、

「ああ、大丈夫だと思うよ。何、飼えるって」と、お父さんは里親探しの続きがある事を思い出していた。

「今SEさんがリキを見に来てるの。ちょうど飼いたいと思っていたところだったんだって。番犬にしたいんで血統書付きの犬を探していたらしいんだけどさあ」と、お母さんがSEさんとの会話の内容を伝えた。

「ああそう、それじゃ、しょうがないかー」と、ちょっと残念そうにお父さんが答えるのをさえぎる様にお母さんが、

「それがさあ、リキを見てるうちに堪らなくなって、この子の兄弟でしょ、なら是非見たいって」と、続けた。

「ああそう、それなら直ぐに来れば、そろそろ昼休だし、T君に電話しておくよ」と、お父さんは何か期待めいたものを感じながら電話を切った。

お母さんはお兄ちゃんが学校から帰ってくるまでまだ4、50分あるからと、昼寝を始めた僕をミカン箱のベッドにそうっと下ろし、SEさんと遊園地の詰所へ向かった。

気性のさっぱりした行動力のあるSEさんは、車の運転も男勝りで熟れたものであった。

30分ぐらい経った遊園地からの帰りのSEさんの車の中には、僕の弟も同乗していたのである。

 

家の前でSEさんと別れたお母さんが、ニコニコ顔でリビングに上がって来た。

眠りから醒め始めミカン箱のベッドの上でモソモソしていた僕を抱き上げたお母さんは、

「リキーっ、良かったねえ、アナタの兄弟がSEさん家の子になるって」と、ちょっと興奮気味に話した。

お母さんの心の中には、僕とこの家族との巡り逢いが、今後の僕にとって確かな幸せを予感させるものである以上、同じ運命にあった僕の兄弟達にも、それなりの幸せを予感させる巡り逢いがあって欲しいとの強い思いがあったのである。

遊園地の店にいるお父さんの思いも同じであった。

僕と一緒に暮す事を決めたお父さんの心の中で、Tさんの手助けのつもりだった里親探しが、僕の兄弟の誰一人も欠けてはならない幸せ探しになっていたのだ。

 

 

土曜日と言う事で少し入園者の期待できる遊園地の店には、翌日の日曜日の準備もあり、お父さんとEちゃん、そしてお父さんの会社の只一人の男の正社員で、平日は営業の外回りをしているSAさんの3人が詰めていた。

SAさんはお父さんと仕事を始めて10年近くになり、まじめに働く事では遊園地でも評判を得ていて、お父さんにとっては右腕的存在であった。

結婚し、2人の子供にも恵まれ、幸せな家庭を築いていた。

お父さんはSAさんを、住まいが公団と言う事で今回の里親探しのターゲットからは外して考えていたが、当然彼にも里親探しの協力だけは頼んであった。

Tさんと歳も近く親しくしていた彼は、Tさんからも頼まれていたのであった。

 

少し興奮気味のお母さんから店に電話が入った「SEさんが1匹連れて帰ってくれたわよ」

「ええっ、本当、それは良かった、でも血統書付きじゃなくて良かったの」と、お父さんが嬉しそうに応対した。

「うん、でも育て易さから考えれば、この子の方がいいわねえと言って、喜んで帰ったわよ」と、お母さんが言った。

「で、どの子にしたの?」と、お父さんが聞いた。

「少し小さいけど元気そうで、良く走り回ってた男の子にしたの」と、お母さんが答えた。

「ああ、そう、それは何よりだ、T君も喜んでたでしょう。ありがとう、じゃあねえ」と、ホッとした表情でお父さんは電話を切った。

電話の内容が僕達の事らしいと、傍耳を立てていたEちゃんが、

「良かったですねえ、後一匹ですねえ」と、自分が打診している里親がかなり自信ありそうな言葉を吐いた。

朝からの3人の会話の中に、お父さんは今日の寝不足が、つらいだけの物では無い事を話していた。

その時には、明日朝メス2匹の引き取り手が見に来てくれるので、30分程だけ持ち場を離れる許可を得たいと言う話しだけは出ていた。

それが、今は、1匹2匹と引き取り手が現れ、それが僕達の愛らしさを目の当たりにした為であろうという思いが、明日の出逢いも絶対にと言う確信に変わって来ていたのである。

 

翌日の朝、遊園地が賑わう前に、妹達2人は引き取られていった。

その日も3人で詰めていたお店に、里親探しの役目を終えたEちゃんが意気揚揚と嬉しそうに戻ってきた。

「喜んで連れて行ってくれました。」と、お父さんに報告をしながら「後1匹なんですよねえ」と、Eちゃんはちょっと肩を落とした。

「そうだなあ、ここまで来たら、何とかしたいねえ」と、お父さんは里親探しの最後の詰めを頭に浮かべた。

ちょうどその時、日曜日用の店構えにする為の下準備をしに、店の外に出ていたSAさんが店に入って来て、

「どうだった?」と、戻ってきて報告をし始めたEちゃんに、実は自分も気をもんでいたんだと言う素振で尋ねた。

「うまくいきましたよ」と、自慢気に答えながらEちゃんは「あと1匹なんです、SAさんどうにかなりません」と、思わず強めの言葉を投げかけた。

SAさんはニタリとした笑みを浮かべながら、Tさんに頼まれた時から気に掛けていて、昨日の夕方帰り際にも見に行っていた事を告げた。

そして奥さんの実家で飼っていた犬が居なくなって暫く経ち、又飼いたいなあと思っているところだったらしい事を、昨日聞いたと話し始めた。

「ええっ、なんだそうだったの、それでどうなの?」と、お父さんはSAさんの話しの確かさを聞いた。

SAさんは「ええ、今日実家へ話しに行っているんで、OKなら連絡が入ります」と、安心しきれない言葉を返してきた。

お父さんは、何とも積極的でないSAさんの何時もの言葉に少しイラ付きながらも、ぬか喜びの大風呂敷は広げられないその生真面目さに期待して、吉報だけを信じることにした。

 

翌朝一番で開園前の遊園地から、最後に一人残ってしょんぼりと朝を向えた僕達のお兄ちゃんが、SAさんの奥さんの運転する車に乗せられ、SAさんの住まいのわりと近くの、奥さんの実家へと旅立って行った。

僕達にとって、僕達5匹兄弟の誰一人欠ける事無く、引き取られる家族が見つかった事は、とても大切な、とても重要な事だったのである。

そして、僕の夜鳴きはこの日以来ぴたっと収まり、お父さんの寝不足の原因もすっかり解消されたのである。

 

 

一週間ほど前には風前の灯火とも思えた僕達5匹の幼い命は、Tさんの思いが、お父さんお母さんの思いと繋がり、そしてEちゃんやSAさんの思いに広がり、あの夜空の星ほども輝けなかったかもしれない命が、今は冬の寒ささえも跳ね除ける、神々しい光を放つ太陽にも負けないぐらいに光輝く命となり得たのである。

僕達の命の光は、飼い主自身が心を開けば、その心を照らし、その傷を癒し、財を守り、愛情の意味を授ける事の出来る素晴らしい物の様である。

 

僕の名前は『リキ』、ここから、僕がこの家族と幸せを分かち合う、素適な物語が始まったのである。

 

 

 

リビンクのエアコンが切られてから、2、30分もすると気温がどんどん下がり始めた。

それまで人気もあり心地よいぬくもりで一杯だったこの部屋にも、冬の厳しい寒さが顔出す。

外とは比較にならないぐらい、緩やかな冷え込みなのだろうが、それまでのぬくもりが大きいものであっただけに、身体に感じ始めてしまうのだ。

僕はさっき見た夜空の星と、あの日見た遊園地の駐車場の広ーい、大きな夜空一杯の星たちが重なる夢を見ていた。

寒さを感じ始めた僕は、眠ったまま身体を丸くした。

そして、鼻先で兄弟達のぬくもりを探した。

半分眠ったまま、丸くした身体を又少し伸ばし、身体を潜り込ませようと探してみたが、ぬくもりにはぶつからなかった。

僕は目を覚ましてしまった。

お兄ちゃんや弟、妹達の誰もそこにはいなかった。

僕は、立ち上がりミカン箱の外へ目をやった。

薄暗い闇の中に、テレビやミニコンポ等のスイッチの所のインジケーターランプの小さな光だけが、夜行性動物の片目の様に鋭く光っていた。

周りは白い壁紙だけがぼんやり浮き上がり、迫ってくる様にさえ思えた。

僕は一人でここに居ることに気が付き、とても寂しく、怖くて不安になった。

心細くて、つい「クーン、クーン」と、生まれて始めての悲しい鳴き声を出してしまった。

悲しく鳴いてみても、何も変わらなかった。

「クーン、クーン」と言うかすれた様なか細い鳴き声は、薄暗い部屋に響くだけで、一層悲しくなった。

僕は勇気を出して思いきり鳴いてみた。

「キャン、」「クーン、クーン」「キャン、キャン」「クーン」

 

階段の上の寝室のドアが開く音がした。

お父さんがガウンの前合わせを深く合わせ、腰紐をしっかり締めながら、スリッパの音を押さえる様に階段を降りて来た。

お父さんが寝床について、まだ30分ぐらいしか経っていなかった様だ。

リビングに入り階段へのアコーデオンドアを閉め、キッチンの方の小さ目の明かりを点け、人の気配がしてもまだ「クーン、クーンと、鳴き続ける僕の方へ近寄ってきたお父さんは、

「どうした、リキ、寂しいのか」と、小声で声を掛け手を差し出し、頭から背中を優しく撫でてくれた。

「おいおい、リキ、お前振るえているじゃないか」と、お父さんは驚いた様子で、普段の声の大きさに戻り、両手で僕を抱き上げ「可哀想に、一人で怖かったのか、リキ」と、僕を胸元に引き寄せてくれた。

お父さんの「リキ」の声の響きに、やっと身体の強張りをやわらげ始めた僕は「クーウッ」と、甘えた声が出せる様になってきた。

お父さんは、しっかり合わせたガウンの胸元を少し緩め、そこに僕を入れてくれた。

そして、腹をくくったかの様に「ようーし、しょうがないかっ」と、言いながらエアコンのスイッチを入れ、ひざ掛け用の毛布を足元に巻きつけ、ソファーの上に横になった。

僕はお父さんの胸元のガウンの中ですっかり落ち着きを取り戻し、今日の嬉しかった出来事を思い起こせるようになっていた。

お父さんの胸元は温かく、どこまでも優しさと安堵感与えてくれる、僕の宝物になっていました。

僕は少しトローンとしはじめながらも、鼻先にあるお父さんの顎の辺りをペロペロし続けました。

この宝物を絶対離さない、僕の物なんだと言う思いがそうさせていた様です。

そして、僕の中では独り立ち出来そうな思いも生まれて来たのです。

僕が大きくなってからもし続けた、お父さんとの儀式の始まりはここにあったのかも知れません。

 

「よしよし、良い子だ、リキ、大丈夫だからねんねしなさい」と、僕の頭を優しく撫でてくれるお父さんも眠そうでした。

もう、とっくに夜中の2時を過ぎている様でした。

お父さんは、スヤスヤと眠り始めた僕の寝息が落ち着くのを待って、そうーっと僕をミカン箱のベッドに移しました。

少し暖まり過ぎになり始めていたお父さんの胸元から離れ、ベッドに移されると、すーっとした感じがして気持ちは良かったのだが、目は半分醒めてしまった。

安堵感が奪われた感じがして僕は「クウーッ」と、甘えた声を出してしまった。

あわててお父さんは「大丈夫だよ、ここに居るよ」と、ソファーに横になりながら手を差し出してくれた。

僕はお父さんの指先をペロペロ舐めながら、又うとうと眠り始めた。

お父さんがそうーっと手を抜こうとすると、甘えてダダをこね「クウーッ」と、口をペチャペチャと動かし、少し眠りが戻されそうになる。

その様子にお父さんは腹這いになって、手を更に深く差し伸べてくれた。

今度はその指先をくわえたまま眠り始めた。

母犬の乳首にしゃぶりついたまま眠ってしまった子犬の様にである。

お父さんはうとうとしながらも、満足そうに僕の様子を見ていた。

そして、朝6時半頃お母さんが起きてくるまで、僕のその眠りは覚めることが無かった。

お父さんが僕に分からない様にそうーっと手を抜き、寝室に戻って眠りにつけたのは夜中の3時をまわってからの様であった。

その後、お父さんのこの寝不足の原因は、3日続いたのである。

そしてこの3日間は、僕達5匹の幼い兄弟にとって、それはそれは大切な特別な日となったのである。

 

 

 

 

 

8時半頃に一本の電話が入った。

お父さんが出て「はいっ、分かった」と、何時も通りと思える短い応対で電話を切った。

お母さんが「二子?」と、何時も通りの会話を交わし、夫々の顔に少し安堵の表情が増す。

食後に、新聞紙の上にしてしまったウンチ騒ぎも、お母さんが「おお、くさいねえ、まだ小さいからしょうがないよねえ。そうそう、この上にするんだよ」と、叱る事もせず、後始末をしてくれた。

初めは『うわっ』と、困った顔つきをしてしまったお兄ちゃんは、くさい物からも目を背けないお母さんのその様子に、尊敬の思いを持ちつつ、「今度はお外で出来る様にしようね」と、僕にさとす様に告げ、頭を撫でに来てくれた。

トイレットペーパーを用意したり、替えの古新聞を用意したりと、後始末の手助けをしていたお父さんは、この二人の様子に、にこにこと満足そうにしていた。

僕は夕食後の家族の団らんの中に、すっかり落ち着いて溶け込んでいた。

電話がかかってから、10分程経ってお父さんが「さあっ、行って来るか」と、ソファーから立ち上がり出掛けて行った。

この家のもう一人の家族、70歳近くになっても身体の動く限り続けると、自分の小さなお店を開けている、おばあちゃんのお迎えである。

今日のお父さんの最後のお仕事なのである。

お酒を1滴も飲まないお父さんは、家族の誰かが出かけている限り、駅までのお迎えは自分の仕事と決めているのだ。

お兄ちゃんの塾通いのある日は、塾までのお迎えと、おばあちゃんの駅までのお迎えは、好きなスポーツ番組のテレビ観戦がどんなにいい場面になっていても、時間がくればこれだけは自分の仕事と出かけて行くのだ。

 

15分程でおばあちゃんが帰ってきた。

お兄ちゃんが僕を又胸元に抱え、勇んでお迎えに玄関へに行った。

何時もなら、おばあちゃんが玄関横の畳の自分の部屋に入り、落ち着いた頃を見計らっておばあちゃんに甘えに行くお兄ちゃんが、その帰りを待ちかねた様に玄関に現れたのである。

おばあちゃんは直ぐに僕に気がつき「あれっ、どうしたんえ、まあっ、かわいいなあ」と、東京へ出て来て30年以上経つのに、家族の中では京都弁丸出しの言葉で、その驚きを伝えた。

お兄ちゃんと僕はそのままおばあちゃんの部屋へ入った。

お兄ちゃんは「リキって言うんだよ、ねっ、リキ」と、出来たばっかりの弟分を、今日の出来事と一緒に一生懸命紹介していた。

着替えをしながらおばあちゃんは「へえーっ、それは良かったなあ」と、僕でもなくお兄ちゃんにでもなくその言葉を投げかけた。

僕への 『この家に来れて良かったね』以上に『かわいい弟分が出来て良かったね』のお兄ちゃんへの思いの方が強そうではあった。

お兄ちゃんは僕を畳の上に降ろし歩かせてくれた。

始めての畳の部屋、フローリングの床の様には滑らないが、じゃれて身構え前足をふんばるとちょっと爪が引っかかった。

着替えを終えコタツの座椅子に腰を下ろしたおばあちゃんは、「どれどれ、まあ、ほんまにええ顔てるなあ、賢そうな。へえーっ」と、僕を抱き寄せた。

歳のせいか少しカサカサした手ではあったが、今でも仕事をしているしっかりとした腕の力に、僕は安心して身体を預ける事が出来た。

この部屋には大き過ぎるぐらいの黒塗りのお仏壇があった。

その上の方には、おじいちゃんらしき人の写真が掛けられていた。

 

これで、この家の家族全員へのお目通りも叶い、この上なく優しく暖かく迎えられた僕は今日から『リキ』として、この家の一員となり、一緒に暮す事になった。

まだ小さい僕は、階段を上へも下へも行けず、専らリビングダイニングをその生活範囲とする事になった。

夜は取り敢えずとばかりに、ミカン箱にお兄ちゃんの低学年の時使っていた学習椅子の座布団を敷いた僕用のベッドが用意された。

 

今夜はこの家で始めて迎える夜である。

10時半頃にお兄ちゃんとお父さんで、「寝る前にもう一度オシッコに行っておこう」と、裏の駐車場へ連れて行ってくれた。

外はエアコンの効いているリビングとは違って、深々と冷えていた。

首輪もリードも夜下ろしたくないと、何も着けずに出ていった。

駐車場に下ろされると、地面の冷たさが足の肉球を通して身体に伝わり、ブルブルと身震いした。

チョコチョコ歩き回る間もなくオシッコが出た。

「おおっ、出たね。本当だ、いい子だね」と、お父さんが言った。

「ねっ、本当に良い子でしょう。」と、お兄ちゃんが自慢気にお父さんに伝えた。

二人は駐車場の道路側にフェンスを作る様にしゃがんでいた。

僕はオシッコをしながら見上げた冬の夜空に、いっぱい輝いている星を見つけ、あの日の遊園地の駐車場の夜を思い出していた。

「さあっ、冷えるから中に入ろう」と、お父さんが言うと、

「はいっ、リキおいで」と、お兄ちゃんが又あの抱き籠に入れてくれた。

あの寒さを凌ぐのに精一杯だったあの日の想い出は、直ぐに掻き消された。

 

11時を過ぎる頃には、夫々が順番にお風呂を済ませ、パジャマの上に何かを羽織った姿で僕に「おやすみ」の挨拶をして、夫々の部屋へ戻っていった。

それと、入れ替える用に最後にお風呂から出て来たお父さんが、ガウン姿でリビングに降りてきた。

「さあっ、リキもねんねかな、今日は始めての事が一杯で疲れたでしょう」と、僕をミカン箱のベッドに入れてくれて、

「そうか、一人で寝るのは今日が始めてかな?鳴かないで寝てくれよ」と、お父さんは僕の頭を撫でながら脇のソファーに腰を下ろし、テレビを見ていた。

お父さんのお風呂上りの手はとても暖かく、僕の身体に触れていてくれるだけでとても安心出来、小さく絞られたテレビの音は、誰かが傍にいてくれる感じがして、直ぐに眠りにつくことが出来た。

この家ではお父さんが、皆が寝静まった事を確認してから、最後にリビングの電気を消して眠りに行く様である。

一休みしたお父さんは、僕がスヤスヤ眠っている事を確認すると、そうーっと僕に触れていた手を抜き、テレビ、エアコンを切り、電気を消して寝室へ上がって行った。