天国のRIKI

全てノンフィクション。あなたの周りにもこんなドラマが。

1時間ほども経ったのだろうか、玄関のチャイムの音がソファーの後ろのホームテレホンから聞こえた。

僕は聞き慣れない音に目を覚ました。

まだ、お母さんの太腿のベッドの上に抱かれていた。

聞き慣れない音に首をもたげた僕にお母さんは、「大丈夫よ、ねんねしてなさい」と、持ち上げた頭を優しく撫でながら受話器に手を伸ばした。

「はいっ、」とだけの応対に、来客でないだろうの想像が含まれていた。

「おかえり、今開けるよ、ちょっと待って」と、にやついた顔でお母さんが答えている。

「リキ、ごめんね、お兄ちゃんが帰って来たからお迎えに行かなくちゃ」と、お母さんはまだ少しトローンとした目で寝そべっている僕を胸元に抱き上げ、玄関へドアを開けに行った。

 

「ただいま」と、お兄ちゃんは何時も通りの表情で、黄色い通学帽を脱ぎながら言った。

「おかえり」と、何時も通りのお母さんのお迎えに、ちらっとだけ目をやり、玄関に入ったお兄ちゃんは、何時も通りに振り返ってドアに鍵をかけた。

そして、靴を脱ぎ玄関を上がろうとした時、何時もなら「どうだった、何か連絡は」と、話し掛けながら先にリビングヘおやつの用意に向かうお母さんが、何時もと違って、まだそこにこっちを向いて立っていた。

それに、今日は「おかえり」の後に何の言葉も発していないのだ。

ちょっと何時もと違う、何やら策略めいたものにお兄ちゃんは気付き始めていた。

あれえっ、と言う思いでもう一度お母さんの顔を見た。

お母さんの顔がやけににやにやしている事に改めて気付き、「どうしたの」と、お母さんに問い掛けた。

その時お母さんの胸元で、急に何やら動く物を発見したのだ。

不覚にも僕が、少し眠りから醒めてあくびをしてしまったのだ

居眠りから完全に目覚めていなかった僕は、お母さんの腕の中でじっとしていて、何か毛皮の襟巻きをくるくると丸めて抱えているような、お兄ちゃんにとってこれといった違和感の感じられない状況だったのだ。

その襟巻きのような物が突然あくびをしたのだから、お兄ちゃんはびっくり。

ちょっと大きめでちょっと垂れ下がった目を白黒させ、

「どうしたのうっ、貰ったの、飼うのっ、ええっ」と、何時もなら給食袋はダイニングに置いて2階の自分の部屋にランドセルを置きに行ってから、リビングに下りてくるお兄ちゃんは、いきなりランドセルを玄関横の畳の部屋に半分放り投げ状態で、僕の方へ両手を出してきた。

あーあっ、やっと気付いたねと言う顔で「さっき、お父さんが連れて帰って来たの」「ほらっ、まだ小さいから気をつけてあげてね」と、お母さんは僕を大切そうに差し出した。

「うわあっ、ほんとだ、かわいいねぇ」と、両手に僕を受け取ったお兄ちゃんは、すぐさま胸元へ引き寄せ両手を胸に巻きつかせるように僕を抱いた。

「そんなにきつく抱いちゃ可愛そうよ」と、お母さんはその加減を教えた。

元々乱暴でないお兄ちゃんは僕を大切にするあまり、ついついその腕に力が入りすぎたようだ。

お母さんに言われて少し力を抜いたお兄ちゃんは、僕がずり落ちない様に片手を下に添え、片手と胸で僕をはさむ感覚を早速覚えてくれた。

小学校6年生、まだまだ小さい抱き籠であった。

それでも、僕を大切にしてくれる気持ちは充分に伝わる、楽しい抱き籠であった。

その頃には、僕の目もすっかり醒め、安定した抱き籠の中でキョロキョロし始めた。

 

「さあっ、上へ行くよっ」と、お兄ちゃんは僕を抱いたままリビングヘ上がった。

周囲に新聞が敷き詰められた様子に、お兄ちゃんは「なにっ、どうしたのっ、これ」と、放り出したランドセルを持って後から上がって来たお母さんに問い掛けた。

「うーん、だってオシッコとかウンチとかおもらしされたら大変だもの」と、答えるお母さんに、

「ええっ、じゃっ、ここで飼えるの」と、お兄ちゃんはまた目を輝かせていた。

「でっ、名前は、なんて言うの、決めたの」と、お兄ちゃんは思いも掛けない嬉しい出来事を確かめる様にお母さんに聞いた。

「そうっ、さっきお父さんと決めたんだけど『リキ』、どうっ」と、自信ありげにお母さんは答えた。

「リキ、リキかあ、いいねえ、格好良いじゃないリキ」と、満足そうに僕の名前を口ずさみながら、お兄ちゃんはまだ胸元に抱えたままの僕に目を落としてきた。

『リキ』の響きにとってもいい感触を持っていた僕は、お兄ちゃんの顎の辺りをペロペロ舐めた。

「うわあっ、くすぐったいよう、リキ」と、ちょっとてれた様子のお兄ちゃんである。

始めての小動物からの愛情表現を受け、嬉しそうで恥ずかしそうな、本当に優しそうなお兄ちゃんだ。

「ほらっ、いつまでも抱いてると、抱き癖がついちゃうよ、手を洗っておやつにしなさい。」と、お母さんか言うと、

「はあーいっ、じゃ、降りててね、リキ、後で又遊んであげるからね」と、自分がこの小いさな動物に受け入れられた自信をうかがわせ、しゃがんで僕を床に降ろし、お兄ちゃんはおやつの時間をとる事にした。

 

おやつを食べながらの何時もの会話も、わりと親子の会話のの多い二人の中でも、今日は特別に弾んでいた。

お母さんは突然のお父さんの電話から始まった今日の出来事とを、順序だてて話した。

お兄ちゃんの驚いた嬉しそうな顔も想像しながら、僕を飼う事にした事も含めて伝えた。

お兄ちゃんは本当は欲しかったが、どのように手に入れるものかさえ知らなかったと話した。

 

おやつを食べながらも、リビンクをチョコチョコ歩き回る僕に視線は釘付けのお兄ちゃんは、気もそぞろ、最後のクッキーを手にすると口には運ばず「ごちそうさま」と、言いながら早速僕の方へ近づいて来た。

「リキ、食べる」と、僕へのお裾分けのクッキーを差し出した。

「あらっ、リキ、いいねえ、お兄ちゃんがくれるって」と、お母さんがその様子を見守っていた。

「小さく砕いてあげないとだめかもよ」と、付け加えたお母さんは「でも、何でもあげない様にしないとね」と、僕の飼い方の教えを少しほのめかす言葉も付け加えた。

お兄ちゃんはクッキーの半分ぐらいを噛み砕き、手のひらに載せ僕に差し出してきた。

美味しそうなバターの香りに引かれ、小さな塊と粉々になったクッキーをペロペロと食べ始めた。

お兄ちゃんも口に残った半分のクッキーをモグモグと食べていた。

僕とお兄ちゃんのおやつタイムである。

手のひらの粉々になったクッキーを舐め採ると「くすぐったいよ、リキ」と、お兄ちゃんは嬉しそうにてれていた。

お兄ちゃんはリビングに腹ばいになり、僕と遊んでくれた。

20センチ余りの僕の背丈まで目線を下げてくれるお兄ちゃんの僕へのお相手は、仲間になってくれる感じがしてとても楽しかった。

前足を前に突き出してふんばり、お尻を上にひょこっと突き出し、尻尾を振り振りお兄ちゃんの手にじゃれついた。

「あっ、そうだ、そろそろオシッコでしょう。させてみようか」と、二人の様子をにこやかに見守っていたお母さんが言った。

「えっ、どうすんの」と、お兄ちゃんは少し戸惑いをみせた。

「そうねえ、裏の駐車場の所なら大丈夫じゃない」と、首輪もリードも用意されていない僕の始めてのお散歩の場所を提案した。

「リキ、はいっ、おいで、オシッコしに行こう」と、お兄ちゃんが僕を両手と胸で作る覚えたての抱き籠に抱え、お母さんと一緒に玄関へ向かった。

 

お兄ちゃんは、それまで不安と言うものを全く感じる事なくおおらかに育ってきたこともあり、明るく陽気で、とても気立てのいい子供であった。

一ヶ月後に中学受験という、自分に初めてとも言える試練の時を迎え、不安と緊張の重圧は、彼の明るさや優しさに少し影を落とし始めていた。

そんな時に突然現れた、この上なく愛らしい弟分である。

『お兄ちゃんが面倒みてあげるからね』と言う、自分よりか弱いものに注ごうとする愛情の芽生えは、自分らしさを奪い取り始めた重圧を跳ね飛ばすのに最適な事柄のようであった。

最近なんとなく疲れた風な言葉を言う様になり、少し明るさや優しさを無くし始めていたお兄ちゃんのその顔からは、不安だの緊張だのと言う、子供らしさを無くす後ろ向きな思いはすっかり消えうせていた。

『僕がお兄ちゃんだ』と言う、何やら責任感らしき自信めいた物が新たに生まれてきたようであった。

お兄ちゃんが僕に言う『後でねっ』は、まさにその現れである。

お父さんが僕をこの家に連れて来たのは、少し苦しみ始めていたお兄ちゃんの気持ちの和みに役立てばとの思いもあったのだ。

それが結果として、もう一つ上の成果を期待できる、素晴らしい巡り合いを作っていたのだ。

僕達小さな生き物は、その接する人との愛情の在り方によって、この上なく素晴らしい世界と時間を作っていける物の様である。

 

6時半を過ぎる頃お兄ちゃんが、「お父さんはまだ?」と、二階の自分の部屋から降りて来た。

その日は週3、4回の塾通いも無く、ひとしきり僕と遊んだお兄ちゃんが、お母さんに「お勉強は」との

何時もよりやさしめの小言に、何時もより素直に「じゃっ、リキ、後でね」と、言い残して階段を上がっ

て行ってから2時間ほど経っていた。

「あらっ、もうこんな時間、急がなくっちゃ」と、夕食の準備に取り掛かっていたお母さんはその手を早めた。

「リキ、おりこうにしてた」と、お兄ちゃんが両手で僕を抱え上げ、ソファーに腰を下ろし僕を膝の上に置いた。

僕はお兄ちゃんが二階へ上がっていった後にもひと寝入りし、またすっかり元気になっていた。

僕は又遊んでもらえる、楽しい時間を期待した。

お兄ちゃんは「リキ、お腹空いた?」と、僕に話しかけ「お母さん、リキのご飯は?」とお母さんに聞いた。

「そうねえ、ミルクは飲んだけど、お父さんが何か餌を買って来てくれるでしょ」と、お母さんが答えた。

車が駐車場に止まる音が聞こえ、少しして玄関のドアの鍵を開ける音がした。

「お父さんだ、リキ」と、お兄ちゃんは僕をすっかり覚えてくれた抱き籠に収め、玄関へお迎えに行った。

お母さんも、夕食の準備の手を止め、後を追った。

「お帰り」二人のお迎えに「おおっ、ただいま」と、何時もならお母さんだけのお迎えが、二人揃っている事にちょっと驚き気味のお父さんである。

そう、二人だけでなくお兄ちゃんの腕の中にはしっかりと僕もお出迎えの仲間入りをしていたのだ。

「おお、リキお前もお迎えに来てくれたの、よーしよしよし」と、お父さんは僕の頭を撫でながら、手に提げていたホームセンターの袋をお母さんに手渡した。

「やっぱり、買って来てくれたんだリキのご飯」と、お母さんはその中を改めながら言った。

その中には可愛い小さな首輪とリードも入っていた。

 

リビングダイニングに戻った3人は、何時も以上に会話を弾ませた。

中でもお兄ちゃんは僕を連れて来てくれてありがとうの意味のこもった言葉を次から次へと興奮気味に話した。

「お父さん、この子おりこうなんだよ、さっき裏の駐車場へオシッコさせに連れていったら、ちゃんとそこでしたんだよ、ねえ、お母さん」と、お兄ちゃんが僕のしつけ役になれている事を自慢げに伝えると、

僕をお兄ちゃんの手から譲り受けながら僕に「ほうっ、リキ良かったねえ、お兄ちゃんに色々教えてもらえるんだ」と、お父さんは満足そうにソファーに腰浅に深く寄りかかり、斜めになった大き目の胸元に僕を乗せてくれた。

あの暖かいセーターの感触に嬉しさがこみ上げてきた僕は、お父さんの首から顎の辺りをペロペロ舐めまわした。

自由にさせてくれるお父さんに更に嬉しくなり、足もとの悪い胸板の上に立ち上がり、今度は立ちあがった事で届く様になったお父さんの口の周りから鼻の周りまでペロペロ舐め尽くした。

少しよろけて爪を立てて首の辺りをひっかきそうになっても、優しく手を添えて何処までも自由にさせてくれるお父さんであった。

その様子を傍らで、お父さんの愛情の大きさを再確認した思いで、嬉しそうに見ていたお兄ちゃんに、

夕飯の用意をしていたお母さんが「お兄ちゃん、リキのご飯用意してあげて」と、小さなステンレスのボールとお父さんが買ってきたドッグフードを差し出した。

お兄ちゃんは「はいっ」と、何時も以上に聞き分けの良い返事をし、お母さんにこれぐらいかなあと相談しながら僕の夕飯の用意をしてくれた。

傍にいたお兄ちゃんの動きに少し目を奪われ始めた僕を両手で抱き上げ、「ほらっ、お兄ちゃんがご飯の用意をしてくれてるよ。いっといで」と、僕を床の上に降ろしてくれた。

リビングの片隅に用意された、シチュー仕立てのドッグフードをペチョペチョ食べ始めると、傍らにいたお兄ちゃんが、

「うあっー、食べてる食べてる」と、自分の仕事の成果に誇らしげな様子で、僕の食べっぷりを見入っていた。

「さあっ、じゃ、こっちも夕飯にしましょ」と、お母さんが言うと、3人はダイニングテーブルにつき夕飯が始まった。

いつもの様にリビンクのテレビはついていたが、この日のテレビはあまり見てもらえなかった様である。