天国のRIKI

全てノンフィクション。あなたの周りにもこんなドラマが。

5分とたたない間に、お父さんとお母さんが血相を変えて車で駆けつけて来た。

僕は車から降りて来たお父さんを見つけても駆け寄ろうとせずに、おばあちゃんの傍を離れなかった。

何時もなら、お散歩の途中でお父さんを見つけた時など、尻尾を振り振り駆け寄ろうとリードをぐいぐい引っ張るのだが、この時はおばあちゃんの傍を離れなかった。

お父さんは「どうした、挫いたのか、立てないって」と、おばあちゃんに問い質した。

一緒に下りて来たお母さんは「大丈夫?、何処か強く打ったの?」と、おばあちゃんに声を掛け、僕のリードをおばあちゃんから受け取り「すいません、有難うございました」と、傍にいた工務店の人にお礼を言った。

工務店の人は「そんなに強く転んだ様に見えなかったんだけどねえ、立ち上がれないと言うんでね」と、その時の様子を教えてくれていた。

お父さんは、少し青ざめて道端に座りこんだままのおばあちゃんに「何処が痛い、足首か?」と、気をつけなければいけない場所を確認しながら、おばあちゃんをそうっと抱き上げた。

起き上がれないことで気持ちが動転していて、何処が本当に痛いのか自分でも分からなくなっていたおばあちゃんは、「兎に角立てへんの」と、照れくささも忘れお父さんの両腕に抱え上げられた。

自分の母親を抱き上げるなどと言う感慨深い経験を、この時初めてする事になったお父さんは、その感慨を感じる間もなく、車の後ろの座席にそうっとおばあちゃんを座らせた。

お母さんは「本当に、有難うごさいました。又改めてお礼に伺います。」と、工務店の人にお礼を言い、僕を抱き上げ車の助手席に乗った。

車の苦手な僕は、車が走り始めると落ち着かず暴れ始めるのが常の僕も、皆の雰囲気が何時もと違い、おとなしく抱かれたままになっていた。

後部座席のおばあちゃんがやっと自分を取戻したのか「あいたたっ」と、車の揺れに応じて身体が動いた事に反応した。

お父さんは「何処が痛い?」と、聞きながらゆっくり目に車を走らせ、家の前の道路脇に止めた。

「外科かあ、小林外科が良いか、ちょっと距離はあるけど評判は良いし、遊園地への途中だし」と、お父さんはおばあちゃんを連れて行く病院を選んだ。

お母さんは「リキを下ろしてお財布持ってくるわ、そうそう、おばあちゃん保険証何処にある」と、次の段取りに入った。

9時前、3人は僕を家に残しその足で病院に向った。

何時かの様に「内緒にしとこうな」では済まない事になってしまったのだ。

病院に向う車の中でおばあちゃんは「すまんこっちゃなあ、余計なことしてしもうて、かえって面倒掛けるなあ、それにリキ怒らんといてな」と、自分の怪我の痛みを棚上げにするような言葉ばかり告げていた。

 

診察の結果、右足の大腿骨の上の部分の腰骨の中に収まる部分の骨折で、手術をして針金を2本骨の中に通し固定すると言う、大怪我である事が分かった。

治療も骨がくっつくのに2ヶ月、リハビリでまあまあ歩けるようになるのに1ヶ月と、3ヶ月の入院を言い渡されてしまったのである。

骨粗そう症の為、そんなに強い衝撃を受けなくても、ちょっとした拍子にでも骨折をしてしまうものだと聞かされ、おばあちゃんの言う尻餅をついただけと言う言葉に今になって頷いていたお父さんお母さんである。

入院の取り敢えずのベッドも決まり、手続きをして看護婦さんに必用になる物の説明を聞き、完全看護だから大丈夫ですと言われ、お昼前に二人は一旦帰ってきた。

僕の表情は何時もと違っていたらしく、何処か申し訳なさそうで、僕を叱る言葉も忘れるくらいであった様である。

ちょうど始業式を終えたお兄ちゃんも折り良く帰って来た。

事情を聞き驚いたお兄ちゃんも、必要になる物を取り揃えるのを手伝い、一緒に病院へ行く事にした。

お父さんはその間に、たった一人の実の姉の本郷の伯母ちゃんに電話をして状況を知らせていた。

伯母ちゃんも驚き、夜家族でお見舞いに来ると返事を返していた様だ。

お父さんは僕の夜ご飯の用意をし、お水をたっぷり目に入れ、帰りが遅くなっても良いだけの準備をしていた。

午後3時に院長先生より、詳しい怪我の症状と入院についての説明があると言われていた事もあり、慌しく3人で病院に向った。

 

足元にドーム型のやぐらを入れ浮いた状態に薄い肌掛けを掛けてもらい、意気消沈して眠っていたおばあちゃんは、お兄ちゃんの姿を見つけホッとした様に「来てくれたんか、学校は」と、少し元気を取戻していた様だ。

お父さんお母さんに面倒掛けて申し訳無いと言う気持ちばかりを持ち過ぎていたおばあちゃんは、まだまだ自分が心配して気をもむ立場になれるお兄ちゃんの出現で少し気持ちが和らぎ、この際だから皆に甘えようと言う気になれた様である。

お父さんは「どう、何か治療してもらったの?」と、足もとの状況をみておばあちゃんに聞いた。

おばあちゃんは「何か、足を引っ張りますとかで、痛み止めの注射を打って針を刺して、それに何や錘を付けて引っ張るとかやってくれはったけど」と、何かすごい事をやられた様な事を話した。

お父さんは何となく恐々と足もとの肌掛けをめくり覗いて見た。

「ええっ」と言うお父さんの表情に、お母さんとお兄ちゃんも恐る恐る覗き込んだ。

ふくろはぎの真中辺りに、畳針のような太い針を衝き通され、針の両側に細めのロープが掛けられ、その先はベッドの足もとの滑車を通って下の錘に繋がっていた。

衝き通された針の両側のふくろはぎにはヨードチンキがペットり塗られていたのである。

刺さっている針の太さに身の縮む思いのお父さんは、少し落ち着いて「ふーん、こうやって突っ張って固定するんだ」と、その仕組みに感心する素振を見せた。

「それで、固定してもらったら痛みは少し収まった?」と、おばあちゃんを気遣った。

「そうやなあ、なんや、ようわからんけど、少しはええみたい」と、少し甘え口調でおばあちゃんは話した。

「ほんまに、えらい事してしもうたわ、こんな大事になるやなんて」と、申し訳なさそうに続けた。

お父さんは「それだけ骨が弱くなってたんだなあ、まあ言い機会だよ、ゆっくり静養するんだな」と、おばあちゃんを慰めた。

動転していたおばあちゃんは、優しい言葉に「そやけど、帳簿どうすんの、あんたやれるか?」と、仕事に対する心配をし始めた。

お父さんは「そこまで気が回るぐらいなら大丈夫だな」と、意気消沈しきっていたおばあちゃんの落ち着きにホッとしていた。

二人の会話に、お母さんとお兄ちゃんも笑顔を見せていた。

 

3時になりお父さんは院長先生の所へお話を聞きに行った。

「このレントゲン写真を見てもらえば分かる様に、大腿骨頭の骨折です。これは骨粗鬆症の進んだお年寄りには多いんです。

只この場所は良く動くところで、固定する事が困難なので手術をして、骨の中に太い針金を2本入れて固定します。

3、4日中には手術をしますがそれまでは、足を吊って固定しておきます。

ご覧になったと思いますが、ちょっと痛々しい格好になりますが、固定するには止むを得ません。」と、院長先生は怪我の状況と今後の治療についての説明をお父さんに聞かせた。

そして更に「お年寄りなので骨がつくのに2ヶ月、その後リハビリをして歩ける様になるのに1ヶ月、都合3ヶ月の入院をして頂く様になります。そこで、ご家族の方にご協力をお願いしたい事があります。」と、何か気になる話をし始めた。

「お年寄りの足の怪我の場合、ベッドから出られない期間が長くなり、その間に痴呆症を発症してしまう事が時々あります。完全看護とは言え精神的な刺激などのケアをご家族の皆さんに協力して頂きたいのです。」と、お父さんに長期療養の為に危惧される所を話して聞かせた。

 

お父さんが病室に戻ってきた。

「大体3ヶ月掛かるって、手術は2,3日の内にやるそうだよ。手術については通常やるものでそんなに心配はないそうだよ。只入院が長いから呆けない様にって。」と、お父さんはそれ程深刻でない素振であっけらかんと話した。

おばあちゃんは「ああ、そうかあ、有難う。そやけど、呆けん様にて言われてもなあ」と、ベッドの傍に居たお兄ちゃんとお母さんに何か同意を求める様に顔を見合わせて言った。

お父さんは「いや、要するに環境と生活のリズムがすっかり変ってしまうから、昼間から寝てばっかりになり、刺激もなくなって呆けてしまうらしいよ。

だから、手術して落ち着いたら少しずつ帳簿を持って来るよ。」と、おばあちゃんに告げた。

お父さんの提案に始めは3人とも「ええっ」と言う顔したが、おばあちゃんが「まあそやなあ、帳簿がどうなってるか気いもんでるより、少しでもここで出来たら、かえってええかもなあ」と、自分が呆け防止の為に続けている帳簿の持ち込みを、むしろ望む言葉を返した。

お父さんは「まっ、自分は毎日遊園地の行き帰りに寄れるし、昼間の時間だけあんまりボーとしない様にしてれば心配ないよ」と、少し労わりの優しさを覗かせた。

お父さんは根っからの硬派で、学生時代にはラグビー一筋で、女、子供への優しさを表現する事に特に苦手意識を持っていた人である。

そのくせ人一倍家族思いで、その思いを常々言葉に出せば良い所を、テレがあるのか口に出す言葉は何時もきつい物になる事が多かった。

僕にだけは優しさをストレートに表現してくれるのだか、それも僕が積極的に甘える事を厭わなかったからなのだろう。

お父さんはその優しさを本当に必用とした人には、それはそれは人も真似できないくらいに優しくなれるのである。

 

その後3ヶ月お父さんは1日も欠かさず病院通いを続けた。

朝は今までより30分早く出て、病院の朝食に付き合い、遊園地の帰りに叉病院により、夕食後の自分の母親の入れ歯の洗浄をするのが日課になった。

そして週1、2回はお母さんとお兄ちゃんが顔を見せに来た。

おばあちゃんもとても呆けるどころではなく、帳簿もやり、お兄ちゃんの受験の心配もしと、結構刺激のある入院生活となった。

お父さんに甘える事が苦手だったおばあちゃんも、すっかり甘える事を潔しとするようになり、色々と家族の刺激を受けながら、治療とリハビリに専念する事となったのである。

仕事上やむを得ない時以外は、余りに熱心に通ってくるお父さんの事が病院でも評判になり、「優しい息子さんで良いわねえ」と、おばあちゃんは羨ましがられる程であった。

おばあちゃんが退院して帰ってくるまで僕の晩酌のお相手は、お預けになったままになってしまった。

元はと言えば僕が原因の今回の事件も、自分の母親への優しさを伝える事の出来る良い機会になったと、良いように採ってくれたお父さんである。

お陰で僕の立場も助かり、大怪我をさせた愛犬としての汚名は着る事が無くなったのである。

そして、3ヶ月後おばあちゃんは右手に杖を持ってやっと帰ってきてくれた。

僕は嬉しかった、「だだいま、リキさん、昼間はひとりで大丈夫でしたか」と、おばあちゃんが僕に話しかけた時、いきなりはおばあちゃんに擦り寄る事が出来なかった。

それでも、1週間ほど静養すると叉始まったおばあちゃんの晩酌のお相手はしっかりと僕が勤める様になったのである。

おばあちゃんの入院中にはお兄ちゃんも、大学の指定校推薦に受かり、春からは6大学の学生になる事を約束されていた。

お父さんの出身校とはラグビーの宿敵に当るが、お父さんもお母さんも現役で受験を見事突破したお兄ちゃんをとても親孝行だと喜んでいた。

おばあちゃんには甘えが先行するお兄ちゃんも、傍にいなかったことで奮起した結果、おばあちゃんに良い所を見せられた様である。

こうして、この家にとっての今回の大事件も、痛さを堪えて先ず告げた「リキ怒らんといてなあ」のおばあちゃんの一言が、皆を思い遣る心に広がり、おばあちゃんの右足の中に太い針金を残しただけで、家族の優しさをお互い知り合える、良い機会となったのである。