天国のRIKI

全てノンフィクション。あなたの周りにもこんなドラマが。

 

13

 

4月3日お母さんが連絡をした、王禅寺にある犬猫墓苑から僕の亡骸を引き取りに来た。

11時ごろお父さんお母さん、そしてお別れをしたいとお花を持って駆けつけてくれた、僕のお気に入りのKさんの3人に見送られ、17年間住み慣れたこの家から旅立つ事になった。

満開の桜を散らそうと言うのか、冷たい雨が降り始めていた。

引き取りに来てくれた墓苑の方がとても良い人で、お父さんお母さんの傷みをとても良く分かって貰えた様で、こちらにお願いして良かったと思っていたようである。

翌日火葬され、この墓苑に埋葬される事になった。

 

こうして僕の一生は終わりを迎え、触れ合う事の出来た夫々の人々心の中にだけ、生きて行くこととなったのである。

翌日お父さんは僕の写真をお仏壇の前に飾り、その前に僕が元気な頃お散歩の時何時も使っていた、首輪とリードを置いて僕の祭壇を用意してくれた。

お母さんは僕のお気に入りのソフトタイプのビーフジャーキーを供えてくれた。

そして、お花もいっぱい飾ってくれた。

僕の訃報を聞きつけたお母さんのお友達が、お花を持ってお母さんを慰めに来てくれた。

この一週間、折に触れてはお母さんは涙をティッシュで拭いていた。

お父さんは今まで通りにお仏壇にお線香を上げに来ます。

そして、必ず僕の写真に目を落とし、微笑む様に何かを確認している。

そう、僕が確かにお父さんの心の中で生きている事をである。

そして、悲しまない決断をしているのです。

 

一週間が経ち仕事から帰って来たお父さんが何時もの様にお線香を上げに来てくれた。

少し長く手を合わせ、お経のさわりの部分を口ずさんでいた。

今日はお母さんがお仕事の日で、先に帰ったお父さんは「ただいま」と、話し掛ける相手のいなくなった我が家に帰る寂しさを感じていた様である。

口の聞けない僕でも、しっかり話し相手になって居たのだ。

9時前に帰って来たお母さんに「今日は初七日だね、カラオケでもやってやるか」と、話しかけた。

おばあちゃんの初七日の法要の時は、故人が好きだったからと親戚縁者全員でカラオケをした事を思い出し、まだ少し寂しげなお母さんを立ち直らせ様と思っての提案だったのである。

お母さんは「ええっ、そうねえ、でもリキはカラオケを嫌がってたからねえ」と却下され、その日はお線香を上げるだけになってしまった。

 

2週間が経ち二七日の日、朝から雨が降っていた。

あんなに咲き誇った桜も殆ど散り、僅かに残った花びらが雨の雫の重みに絶えきれず落ちていく様であった。

お父さんはお母さんを仕事前に墓苑に寄ろうと誘った。

お父さんはあざみ野の銀行周りで仕事場に行く時何時も通る道で、その場所はよく知っていた。

二人は始めて訪れたこの墓苑で様子が分からず先ず受付へ行ってみた。

お父さんは「今月の2日に家の犬が亡くなりこちらにお願いしたのですが」と、受付の女性に聞いてみた。

その女性は神妙な表情で「それはそれはご愁傷様です。それでご案内のお手紙をお持ちになりましたか?」と、尋ねた。

お父さんは「いえ、頂いてはいましたが持って来ませんでした」と答えた。

「分かりました、ではお電話番号をお聞かせ下さい」と、言われ答えると、

「・・リキちゃんですね」と、電話番号を入力したパソコンのモニターを見て答えてくれた。

「ええ、そうです。こちらの様子が良く分からないもので」と、告げた。

対応してくれた女性は「それでは、ご案内致しますので、どうぞ」と、親切に墓苑内を案内し、今後訪れた時どうすれば良いのか詳しく説明をしてくれた。

「一年間はこちらの方にお骨を保管させて頂きます」と、言われた本堂のような部屋に入り、4月の祭壇の中に『・・リキの霊』の、お札を見つけお父さんは「おお、大切にしてもらってるじゃない、よかったよかった、有難うございます」と、その女性にお礼を言い、お線香を上げた。

お母さんは叉少し目に涙を溜め、お父さんに続いてお線香を上げた。

周りの祭壇にお花が供えてあるのを見て「ああっ、お供え持ってくれば良かったねえ、ごめんね」と、言う言葉に案内をしてくれている女性が「好きだった物などお供えして頂いて結構ですよ」と、言葉を添えてくれた。

そして、外の駐車場の上の立派な石塔のある所へ案内され「お参りに来られた時は、こちらの中からリキちゃんのお塔婆を出して頂いて石塔に立て掛けてお参り下さい」と、4月の中から真新しいお塔婆を引き出してくれた。

そこにもしっかり『・・リキ霊位』と書かれていた。

お母さんは僕の魂がこの世に存在したと言う証が出来たと少しホッとした様である。

そして、悲しみから立ち直るきっかけを掴んだ様であった。

 

こうして僕のお墓も出来、僕がこの世に生を受け、触れ合う事の出来た人々に大事にされ、死んでなおその魂までも大切にされる事となった。

生ある物には魂があり、魂を大切にする心がその人にある限り、人は優しくもなれ、幸せにもなれる。

僕は今なおお父さんのパソコンの中で生き続けているが、何時までも僕の魂が輝く物であって欲しいと願う。

そして、人の世のいたるところに幸せが満ちていて欲しいものでる。

 

12 アジュラマカイト(絆)

 

11時前二人はテレビのバラエティー番組を見ていた。

その日は春の特番で、以前放送されたもののハイライトをプレーバックして放送していた。

あのマイケルジャクソンが突然収録中のスタジオに現れると言うサプライズ場面になった時、お母さんが「そうそう、これ見たよねー」と、言うと。

お父さんも「ああ、そうそう、見た見た」と、そのサプライズが一番の盛り上がりになる時に、何かタバコでも吸おうと思ったのか、ソファーから立ちあがり、タバコの置いてあるダイニングテーブルの方へ行こうとした。

そして、当然の様に普通に僕の方へ視線を落とした。

「ええっ、リキ」と、お父さんが思わず声を出した。

お父さんの声に驚いて、お母さんも深くもたれ掛かったソファーから身を乗り出した。

お父さんは「動いてないよ、動いてないよね」と、一瞬立ち竦み自分の目に写った僕の胸元の様子を自分に確かめる言葉を続けた。

そしてそのまま、僕の傍に座りこみ「リキ、もう動かないの。リキ、死んじゃったの。ええリキ」と、ほんの2、3分前には確かに上下に動いていた僕の胸に手を当て、微かでも良い、手に鼓動が伝わらないか探ろうとした。

お父さんにしてもお母さんにしても、こんなに何の前兆も無く僕の命が終わりを迎えるなどとは思いもしなったのである。

身を乗り出したまま、一瞬腰が抜けた様に動けなかったお母さんは、「まだまだ温かいそのままだよ」と、膝掛けを剥いで僕の身体を摩り続けるお父さんの言葉に、やっとどうにかソファーから下り、「リキーっ、死んじゃったの、リキ」と、お父さんの脇に座り込み、僕の身体中を撫でてくれた。

お母さんの目からは大粒の涙がどんどん溢れていた。

お母さんは涙も拭かず僕の身体を摩り続けた。

お母さんの涙は、大粒のまま僕の身体に降り注いだ。

お父さんも目を充血させながら「そう、えらかっねえリキ。苦しくなかったかリキ、ゆっくりおやすみ、ご苦労さん」と、僕の薄目を開いたままになっている目元を両手で優しく摩り、目を閉じさせてくれた。

目を瞑る事が出来た僕の顔を両手で挟み、僕の黒い鼻にキスをして「ありがとう、向こうでおばあちゃんが待ってるからね、叉晩酌のお相手でもしてあげてね」と、僕とのお別れを告げた。

お母さんも涙の溢れる顔を僕の顔に摺り寄せ「リキ、ありがとう、リキ、ありがとう」と、僕とのお別れをした。

 

僕の命の灯火は最後の溶けた蝋まで吸いきりしっかり燃やしきり、そしてその芯までもが黒く残らず白い灰になるまで燃え尽き、寿命の全てを使い切って消えたのである。

お父さんお母さんありがとう、僕の寿命の全てを見届けてくれて、こんなに大切にされて本当に嬉しかったよ。

これでもうお父さんお母さんの優しさを永遠に忘れないでいられるんだよ。

ありがとう、本当はずうっと二人の傍に居たかった・・・・、でも、寿命の燃え尽きる所まで見取って貰えた幸せは天国に行っても自慢出来るよ。

お父さんお母さん寂しがらないでね、僕は何時までも二人の心の中に生きているよ。

 

お父さんとお母さんは僕とのお別れをしてから、僕の身体をきれいにしてくれた。

二人で僕の亡骸を大切そうに抱き上げ、その時に現れる症状の脱糞排尿の処理をし、お湯で絞った温かいタオルできれいに拭いてくれた。

そして、お父さんはお仏壇から何時も供えられているお花を持って来て、僕の顔の傍に置いてくれた。

その日に供えられていたのは玄関先でお母さんが丹念に育てている白いクリスマスローズの切花と、濃い目のピンク色のランの花であった。

お母さんは「今もっと新しいの切ってくるから」と、言いながら僕の顔の周りを囲める程のクリスマスローズを持って来た。

それからお父さんは、蝋燭立てとお線香立てをお仏壇の前の小卓に用意して僕の枕元に置いた。

そして、蝋燭に火を点し、二人は一本ずつお線香に火を点け手を合わせた。

一息ついて、11時半頃になっていたが、もう帰って居るだろうとお父さんはお兄ちゃんに電話をした。

お兄ちゃんが電話に出ると「ああっ、帰ってた。さっきちょっと前にとうとうリキが死んじゃったよ」と、お父さんは報告をした。

「ええっ、あっそう、それじゃ直ぐ行くよ」と、お兄ちゃんは答え電話を切った。

10分と経たないでお兄ちゃんがお嫁さんと一緒に来てくれた。

「やっぱりだめだった」と、お兄ちゃんは残念そうに言いながら僕の傍に立ち「おおっ、お花で綺麗に飾ってもらったじゃない」と、僕の枕元に跪き、僕の頭を撫でてくれた。

お嫁さんもその横に跪き身体を撫でてくれた。

そして二人はお線香に火をつけ手を合わせてくれた。

お嫁さんの目にも涙が溢れていた。

お兄ちゃんは「でも、良く頑張ったよ、ねえリキ」と、涙の止まらないお母さんを慰める言葉を告げた。

お嫁さんは何時も以上に控えめに「ここまでしてもらって、リキちゃんは幸せだったでしょう」と、言葉を選びながらお父さんお母さんを慰めた。

お父さんが「まだ温かいでしょう」と、言うと、

お兄ちゃんは「ほんと、なんか眠ってるみたい」と、いいながら僕の耳をクリクリして

「耳なんかぜんぜん柔らかいし、そのままだね」と、その感触を思い出していた。

お兄ちゃんに最後の甘えのお別れをさせてあげようと思ったお嫁さんは、その場を少し下がりダイニングの方の椅子に腰掛けた。

今度はお母さんがお兄ちゃんの横に座りこみ、膝掛けをめくり「こんなに痩せちゃうんだね。ほらっ」と、僕の腰の辺りから背中をさすり、叉涙を溢れさせていた。

お母さんとお兄ちゃんは僕の身体の何処かを摩りながら「でも、本当によく頑張ったよ、一週間近くも食べてないんだから」と、僕に安らぐ様に一生懸命心を伝え、そして最後の僕に対する甘えのお別れをしていた。

翌日のお嫁さんからお母さんへのメールに「昨日はありがとうございました。家族3人で水入らずのお別れが良いのか悩んだんですが、私もこれからはしっかり家族なんだから一緒にお別れさせてもらおうと思って行ってしまいました。行って良かったです。ありがとうございました」と、書かれていた。

お兄ちゃん、こんなに思い遣りのあるお嫁さんならもっと早くに家族になりたかったね。

ありがとうお兄ちゃん、弟の僕が先に歳をとっちゃんたんだから、こんなお別れになっちゃったけど、僕を何時までも弟にしておいてね。

僕の耳をクリクリ出来なくなるけど、その感触だけは忘れないでね。

僕とお兄ちゃんだけのコミュニケーションだったんだからね。

僕は先に行ってるおばあちゃんに叉甘える事にするよ。

そして、こんなに思い遣りのある可愛いお嫁さんが、お兄ちゃんの所へ来てくれた事もちゃんと伝えるからね。

きっと、おばあちゃんも喜んで、叉乾杯の晩酌だね。

お兄ちゃん幸せになってね、そして家族もいっぱい増やして、賑やかな楽しい家庭を作ってね。

 

12時になっていたがお母さんは大きいお兄ちゃんに電話をしていた。

「遅くにゴメン、いや実はさっきリキが死んじゃってね。」

「そう、今二人で来てくれてるの。ええっ、いいよいいよ、もう遅いし、二人共明日は仕事もあるし。今度来た時でもお線香上げてくれれば、取り敢えず報告をと思って」

「うん、ありがとうね、じゃあね」と、電話を切った。

大きいお兄ちゃんとは一緒に暮した事のない僕だが、大きいお兄ちゃんもお母さんがどれほど気落ちしているか分かったのだろう。

直ぐにも二人で駆けつけ様と思ってくれたらしい。

お兄ちゃんのお嫁さんも色んな事への気配りの出来る、思い遣りのあるしっかり者の姉さん女房で、ベテランの歯科衛生士で、お兄ちゃんの確かな右腕である。

3月中頃にお母さんのお誕生会をレストランでやり、何時ものようにボーリング、カラオケを楽しんだ際、お嫁さんの指には去年の暮れにお父さんが二人のお嫁さんの為に手作りをしてプレゼントした、シルバーのバラのリングをさりげなく着けていてくれた。

毎週の様に麻雀に来ては、衣類に着けて持ちかえる僕の毛が何時の間にか当たり前の様に部屋に舞う様になり「家にもリキちゃんの痕跡がしっかりありますから」と、ここのところの僕の様態を気に掛けていてくれた様である。

僕と大きいお兄ちゃんの想い出は、麻雀に来る時夕飯が間に合わず途中で買ってくるハンバーガーに付いているフライドポテトを一緒に食べた事かな。

僕に対する思い入れはそれ程強くは無いだろうと思っていたが、そうでも無かった様である。

次の日曜に麻雀に来た時、何時も少し遅れ気味に皆を待たせるお兄ちゃんが珍しく約束の時間より少し早く来て、リビングに上がって来るなり「で、リキのお墓と言うか、位牌と言うかは何処」と、お父さんに聞いた。

お父さんは「ああ、お仏壇の前に奉ってあるよ」と、告げると、

「じゃ、ちょっとお線香上げてくるよ」と、僕とのお別れが出来なかった事が如何にも気になっていた様であった。

ありがとう大きいお兄ちゃん、お兄ちゃんの心の中にも僕は住み着いていたんだね。

これからも、お母さんの事よろしくね。

そして、兄弟仲良く、楽しいファミリーでいてね。

僕が心置きなく旅立てるのは素適なファミリーをこの世に残せたからなんだよ。

 

ありがとう皆、こんな素適なファミリーの中の一人であった僕は幸せ者です。

人の思い遣りというものが、どんなに温かいもので、どんなに素晴らしいものか、僕は知る事が出来ました。

優しさを照れずに素直に表わす事に不得手な人の世で、僕と知り合えた人達は皆素直になってくれました。

僕がこの世に送り出された意味は、そんな所にあったのかも知れません。

人の心って本当に温かい、優しい、素晴らしい物なのですね。

もう思い残す事はありません、僕はしっかりあの世へ旅立ちます。

そして、これからはお父さんのパソコンの中だけで駆け回る事にします。

そして、いよいよ桜は満開になった。

日曜日は天気も良く、お父さんも例年に無い忙しさを乗りきり、7時過ぎに帰宅した。

何時もの日曜日なら大きい方のお兄ちゃんが麻雀に来るのだが、お父さんの忙しさがピークであり、疲れているだろうからと今日はパスと言うことになっていた。

僕の状態も思わしくない事で麻雀と言う気分でもなかったのだろう。

お父さんは帰って来てリビングに上がってくると、先ず僕にお水とミルクを飲ませてくれる。

ミルクを飲みにくそうにすると、「やっぱり駄目か、リキ」と、がっかりしながら叉少し水をくれる。

二人が夕食の後「後、どれくらい持ってくれるかねえ」と、お母さんが言うとお父さんは「食べなくなって1週間て言うからなあ、どうだろう、もう何日もないかもね」と、何か淡々とした会話が続いた。

お母さんが「明日は仕事に出なくちゃいけない日だし。二人共いない間に何かあったら可哀想だしねえ」と、お父さんに告げた。

お父さんは「でも、今は動けなくなってもがく事も無いし、ただ寝てるだけだから心配は無いよ。ただ喉がひっつかない様に水だけはやりたいよねえ」と、答え「店の方は少し遅めに行けばいいよ、自分が出来るだけ早く帰ってくるから、なんとかなるよ」と、付け加えた。

そして、明日も早いからとお父さんが先に寝室へ上がって行った。

翌朝お父さんは夕べあんな話をした事もあって、何時も以上に心配な面持ちでリビングに下りて来た。

カーテンを開ける前に僕に掛けられている膝掛け毛布の胸の辺りを見て、まだまだ上下にしっかりと動いている事を確認すると、カーテンを開け、もう一度僕を見る。

明るさに反応する様にうつろな目を開けると「おはよう、リキ、喉乾いたか?」と、お水を飲ましてくれた。

一口二口とお水を飲めた僕を見ながら、本当にホッとした表情に変り、朝の支度にとりかかった。

お父さんが出掛けた後、今度はお母さんが何度か水を口に含ませてくれた。

そして、お昼前お母さんは「リキ、はいお水、お母さんも出掛けなくちゃいけないの、お父さんが帰ってくるまで大丈夫ね、ゆっくり寝てなさい」と、お水を一口飲みながら叉トロトロし始めた僕に言い聞かせ、何時もより遅めにお仕事に出かけた。

 

そして今、僕の命の灯火は最後を迎えていた。

蝋燭の白い蝋の部分はもう使い切って、熱せられて透明になり芯に吸い上げられる蝋が僅かに芯の下に残っているだけになっていた。

風に拭かれて倒れ、まだまだ白い蝋の一杯残ったまま消えてしまう灯火や、強い風にあおられとけた蝋が外に流れ出し、芯が吸い上げる蝋が少なくなり寿命を迎えた命の灯火など、与えられた寿命を最後まで使い切れる命の灯火は、そうは無いのかもしれない。

僕の命の灯火は生まれたばかりの頃に、一度消されそうになった。

そしてパルボと言う怖い病気に掛かった時強風にさらされた。

でも、その時々に僕の回りに現れた人達のお陰でここまで来た。

幸運だった、そう僕は出遭えた人達皆にに恵まれたのだ。

そして、人の暖かさを知り得た事が、僕にその寿命の限りを生き抜く事を許されたのかもしれない。

 

夕方お父さんは6時過ぎに、何時もより少し早めに帰って来てくれた。

お父さんはお仏壇に向う前に、先にリビングの僕の所に上がって来て、薄暗くなった部屋の明かりもつけずに、膝掛け毛布の動きを確かめた。

まだ確かに上下に動くのを確認すると、お仏壇にお線香をあげに行った。

そして、リビングに戻って来て電気を点け、カーテンを閉め、僕の傍に跪き僕の目を見た。

「一人で大丈夫だったか、良い子だ、お水だね」と、少し心配そうに言った。

僕が珍しく少し口を開け、微かな『ぜいぜい』と言う音を立て、口で息をしていたのだ。

「どうした、苦しいのか?お鼻が詰まったのかな」と、言いながら頭を撫でながら少し首の位置を変えてくれた。

すると『ぜいぜい』と言う音は収まり鼻で普通に息をし始め、口をペチョペチョ動かした。

「分かった分かった、はいお水だよ」と、ポリエチレンの容器で水を飲ましてくれた。

一口二口三口、少し多めに水を飲む事が出来、4、5日前と同じ様に飲みながら目を閉じ眠り始めた。

「ようーし、よしよし、落ち着いたか、良かった良かった」と、ホッとした様にお水の容器を置き、僕の前足を握り冷たい肉球を暖めてくれた。

今の眠り具合はここ2、3日より変に熟睡しているなあとお父さんは感じていた。

それでも、落ち着いているのだからと安心する事にして、簡単な夕飯の支度にとりかかった。

最近は週に1、2度、お母さんがお店に出て帰りが遅くなる時はお父さんが簡単な夕飯を用意する事があったのだ。

9時前にお母さんが帰って来た。

「ただいま、リキは大丈夫だった。」と、お母さんは玄関を上がりながらお父さんに声を掛けた。

「お帰り、大丈夫そうだよ。帰って来たら少し口で息してたから心配したけど、ちょっと首の位置変えてやったら落ち着いて、水飲みながら寝ちゃったよ。なんかそれもやけにスヤスヤ眠ってるよ」と、お父さんが答えた。

お仏壇にお参りをしてリビングに上がってきたお母さんは、何時もなら着替える前にすぐに僕の頭を撫でに来て「ただいま、リキ、どうお、大丈夫?」と、声を掛けうつろな目に溜まった涙を拭いてくれるのだが、この日ばかりは帰りの途中ずうっと僕の事で気を揉んでいたのが、お父さんのスヤスヤ眠っていると言う言葉にホッとし過ぎたのか、僕の様子を立ったまま確かめ変に起こさない方が良いかと思い、先に着替えに上へ上がって行った。

二人の食事中も「やけにスヤスヤ寝ちゃってるよね」と、お互いに言いながら、視線だけは僕の方へ向けていた。

あまりに熟睡している様子に、時々は膝掛け毛布の動きをも確かめていた様である。

9時半頃、食事を終えた二人はソファーに座りテレビを見ていた。

どの番組を見ても、コマーシャルだったり、番組の内容の区切りだったりすると、僕の方に視線を落としてくれていた。

僕の傍で僕の身体に触れるには、あまりに熟睡出来ている様に見え、その胸の鼓動だけを確かめていたい心境だったのだ。

そしてその動きは乱れる事も無く、弱まる様でもなく、まだまだ正確にリズムを刻んでいたのである。

7時過ぎにお父さんが帰って来た。

何時もの様に先ずお仏壇にお線香をあげる為に畳の部屋へ行った。

お仏壇に桜の小枝かお供えしてあるのを見て、昨日の夜お母さんが「明日一人で桜見に行ってくる」と、言っていた事の意味を悟った。

お父さんは蝋燭に火を点し、お線香に火をつけお供えして、何時もより少し長く手を合わせていた。

そしてお母さんもやっと僕とのお別れの近い事を受け入れ始めたのだと思った。

実はお父さん自身にとっても、僕とのお別れは受け入れ難い事であったのだ。

責任ある仕事もあり、大の大人のそれも男が愛犬ごときに振りまわされては、と思いつつも僕への思いは特別の様てあった。

今年になってお父さんは、僕とのお別れをしない方法がないものかと考えた。

生命に限りがなければそれも叶うであろうが、それはあり得ないことである。

老衰ばかりは医学薬学ではどうにもならないのである。

僕の体型から推定される、人に置き換えた年齢は100歳ぐらいとなれば、今の体力の衰えは回復の望めないものなのである。

お父さんの心の中に住み付いた、一心同体と思えるほどの僕との絆を、もし生命の限りが引き裂こうものなら、耐えがたいものになるだろう。

病気であったり事故であったりと何かを後悔する事で、その別れを受け入れるのでない事は、一番辛い事なのかも知れない。

大往生であったと喜んでやる事など、別れである限りとても出来そうに無かった。

お父さんは決心をした。

僕が命の限りを迎えても、お別れをしないと決めたのである。

お父さんの心と頭の中で何時までも僕が生き続けるのだ。

それでも思いと言うのは薄らぐ事がある、そこでお父さんは生まれてこの方書いた事もない物語を書く事にした。

これで僕は何時でもお父さんの中で生き続けていられる。

お父さんのパソコンの中でまだまだ甘え、わがままを言い、元気に走り回れる事が出来るのだ。

お父さんはこの決心をしてから、僕の衰えをやむを得ない事としっかり受け止め、別れのその時まで更にしっかり僕を見つめてくれている。

お父さんの踏ん切りは、僕を自分の心と頭の中で生かし続けることであったのだ。

 

リビングに上がって来たお父さんは「ただいま、どう、リキは何か口にした?」と、お母さんに聞きながら僕のそばに来てくれた。

お母さんは「全く食べてくれないの、お水も少しだけ」と、切なそうに答えた。

お父さんは跪き僕の頭を優しく撫で、目の下から口の周りをそうっと撫で上げてくれた。

うつろな中で僕が少し口を動かしペチョペチョと舌の音を立てると、ポリエチレン容器で水を少しずつ注ぎ入れてくれた。

ペチョペチョ、ゴクンと喉の音がして、飲み込めた事を確認すると「ミルク飲んでみるか、リキ」と、水の容器を牛乳に替え注いでくれた。

お水ほどスムーズに入っていかない口元を見ながら「ミルクは嫌か、そうかそうか、じゃ、はいお水」と、叉お水を注いでくれた。

牛乳でねばっこくなった口の中を洗い流す様にお水を一口二口飲み、またそのままとろとろし始めた僕に「いよいよ、お水だけになっちゃったか」と、お父さんも切なそうに言った。

そして二人の夕食が始り、お母さんは今日桜見物にどれぐらい歩いたかの話をした。

テレビはついていたが僕がこの家に来たばかりの頃と同じ様に、二人の視線は僕に向けられる時の方が多かった様である。

 

夕食後暫くしてお父さんはお兄ちゃんに電話をしていた。

「どう、仕事の方少しは落ち着いた?」と、ここ2ヶ月程帰りが毎晩12時を過ぎると聞いていた事への労いの言葉を掛けた。

「うん、少しはね。でも、研修の最後の詰めがいよいよだからねえ、今度は家で徹夜だよ」と、お兄ちゃんが答えた。

「あっそうか、まだまだ大変だ。いや先週顔出さなかったから、そうかなとは思ったんだけどさあ・・。

実はリキがいよいよみたいなんで、まだ応答のある内に逢っておけばと思ってさ」と、お父さんが告げた。

「ええっ、あっそう、もうそんななの?」と、お兄ちゃんが聞き質した。

「そう、だってもう3、4日何も食べないんだからもう持たないだろう」と、お父さんが言うと、お兄ちゃんは直ぐに

「そう、それじゃあ、直ぐに行くよ。」と、答え電話を切った。

去年の5月に結婚してから月に1、2度は顔を出し、時々お嫁さんも一緒に来てくれて、僕を励ましてくれていた。

今年になって僕の体力の衰えと激痩せが始ってからは、毎週の様に週末に顔を出し僕の介護のお手伝いをしてくれていた。

来るとお兄ちゃんなりのやり方で「とにかく少しでも食べないとね、リキ」と、言いながら僕に食事を与えてくれるのだ。

そして、お父さんが後から帰ってくると「今日はビーフジャーキーを20本食べてくれたよ」とか「今日はチーズを少し食べたよ」とか報告をしていた。

3月末に立ち上げなければならない事業の詰めの仕事に追われながらも、何時も僕のことを気に掛けてくれているのだ。

研修のレポートにも追われ始めたのか、さすがに先週は顔を出せなかった所へのお父さんからの電話であった。

 

30分程してお兄ちゃんがお嫁さんと二人で来てくれた。

二人は僕の傍に跪き、優しく頭を撫で、動けないから寒そうだし、痩せ過ぎた身体を見るに忍びないと掛けられている薄い膝掛け毛布をめくり、骨だけになってしまった身体を摩ってくれた。

お兄ちゃんは週末に来れなかったからと、つい最近のウィークデーに10分ほど立ち寄った時より更に痩せ衰えた僕の身体を見て「リキ、えらいねえ、良く頑張ってるねえ」と、誉めてくれた。

お兄ちゃんは「もう、何も食べられない?」と、お父さんに聞いた。

お父さんは「そう、もう、ミルクも喉を通らないみたい」と、答えた。そして「水ならまだ少しは飲めると思うよ、あげて見て」と、付け加えた。

お兄ちゃんはポリエチレンの容器で少しづつ水を注ぎながら、「飲める、リキ」と、涙で一杯のうつろな僕の目を見ながら声を掛けた。

少し舌を動かし、喉が動くのを見て「飲めたね、えらいえらい」と、叉誉めてくれた。

一口でもうトロトロし始めると「ようーし、よしよし」と、頭を撫でてくれた。

この2週間ほどは殆ど固形物を口にしなくなっていたので、痩せ方は尋常ではない。

あばら骨はくっきり浮き上がり、お腹の部分は内臓が無くなったのかと思えるほど細くなり脊椎だけになってしまった感じである。

そして、骨盤から脚もその骨の形がはっきり見えるほどである。

もう痩せる所が無いであろうと思える僕の身体ではあるが、まだまだ人の暖かさは分かるのだ。

そして、生命力と言う物はすごいもので、口からそれを保つ為に必要なエネルギーが入って来なくなると、自身の身体の脂と言う脂などエネルギーに変えられる物を全てエネルギーに変え、生命を保つのである。

幸い僕は体力が衰えても呼吸不全とか心臓疾患とかの余病を併発しないで済んでいる。

だから、呼吸を荒げる事も無く、痛みに苦しむ事も無く、只トロトロと出来ている、これも、皆の手厚い介護のお陰なのだろう。

2時間ほどしてお兄ちゃん達二人は帰って行った。

帰り際に何時もなら僕に「頑張ってね」と、力強く励ましてくれる言葉も、今日は少し優しく『ありがとう』の意味を含めていた様であった。

 

11 翡翠(長寿)

 

3月になると僕の身体は本格的に弱り始めた。

少し落ち着いていた食欲にもむらが出て来てしまった。

それと言うのも足がすっかり弱ってしまい、食事の間も立っていられなくなってしまったのだ。

月初めの頃はまだお父さんかお母さんに軽く支えてもらっていれば、なんとか食事を取る事が出来たのに、中頃になるとしっかり抱きかかえてもらわないと食事を取れなくなってしまった。

食事の量も半分ぐらいまで減り、それも上手く舌ですくえなくなり、食事中に何度もボールの中の食物を盛り上げてもらいいながらやっと食べられると言う始末である。

食事の後は少しの間抱きかかえてもらって、ゲップの様な喉の奥の音を聞いてから横に寝かせてもらう。

自分の足で立てなくなってしまった事で、トイレも外へ行く事がなくなり、1日中オムツの厄介になる事になった。

始めはオモラシをした時のためにしてもらっていたオムツも、排泄の為の当たり前の道具になってしまっている。

それでも、尿意、便意をもようすと首を持ち上げ何となく欲求を知らせる。

お父さんかお母さんが気が付き傍に来て「いいよ、しちゃっていいよ」と、声をかけてくれる。

オムツの中にする排泄は今一つすっきりせず、「出たかな」と、オムツを取り替えてもらって、湿った身体を拭いてもらっている最中にしてしまう事も時々あったり、替えたばかりの真新しいオムツにいきなりオシッコやウンチをしてまうのだ。

「なんだなあ、替えたばっかりなのに、もうしちゃったの」と、叉替えてもらう事もしばしばである。

お母さんは「赤ちゃんと同じだね、気持ち良くなると出ちゃうんだよね」と、お兄ちゃん達の育児の時を思い起こしていた様だ。

老衰と言うのは元気だった命が、段々と生まれた時の状態に戻る事の様である。

 

段々と日を追うごとに鳴き声も弱々しくなり、夜鳴きの声が2階まで届かず、お父さんお母さんの寝不足の原因からは遠のいた。

ただ、春になり仕事が忙しくなり始め、朝先に降りてくるお父さんが僕の胸元が動いているかを確認するまで、不安な思いを抱きながらの目覚めはつらそうであった。

そして「どうだい、大丈夫か、喉乾いたでしょう」と、先の尖ったポリエチレン製のドレッシングの入っていたビンで水を口の中に注ぎ入れてくれる。

ペチョペチョと舌を動かし水を飲む、喉の奥がゴクッと動くと「ようし、よしよし」と、少し安心を取戻すお父さんの毎朝となっていた。

朝、早く出かけるようになったお父さんに代わり、夜はお母さんが面倒を見てくれる様になった。

深夜、僕の傍にいるお母さんも、僕の状態が良くなる方向へは決して向う事のない老衰である事を、徐々に理解し始め何処かで覚悟を決める心づもりを持ち始めていた。

あんなに意味のない夜更かしを嫌うお母さんが、深夜テレビを見ながらも僕の傍にいる時間を長くする事を厭わなくなった。

朝お父さんが出かけた後、お母さんが色々と工夫をして食事を与えてくれるのだが、寝たきりになってしまった僕は上手く飲み込めず、ほんの一口か二口になり、食事と言うまでには至らないものである。

そして、ウンチがゆるくなって後始末が大変だからと与えられる事があまり無かった牛乳も、とことん落ちた食欲の補助にと、ポリエチレン容器で飲ましてもらうようになった。

そう言えば、僕がこの家に来て初めての食事が牛乳であった。

今、僕の寿命の限りはそこまで来たのかも知れない。

 

暖冬、暖冬と騒がれ、桜の開花も10日も早くなるのではと言われていたが、去年より2、3日程度早いのものに落ち着いた。

そして、3月の終わり頃にはすっかり満開になった。

3月31日お母さんはその日の朝僕が水を飲み、ミルクも少し飲めて落ち着いているのを見て、一つの決断をした。

お花見に出かけようと言うのだ。

夜更けの雨もすっかり止み、天気は急速に回復し気温も春らしい暖かい日になっていた。

「リキ、一緒に行けないね、お母さん一人でいってくるからね」と、眠っている僕に言い残し、スニーカーを履いて出かけて行った。

家を出ると、ご近所のお屋敷の桜が満開に近い事を確認し、鷺沼に向った。

バス通りの両側には所々にある桜の木々が、そしてちょっと脇にそれた小台公園の桜は見事に咲き揃っていた。

公園ではビニールシートを広げてお花見の宴会も始っている。

その先の小さな公園の桜も満開で、道から低い所にあるこれらの公園の桜は、見上げて楽しむ桜を所によっては眼下に楽しむ事も出来る。

田園都市線沿いの道に出ると、東急電鉄の敷地内の桜もきれいである。

そして、鷺沼の駅前の桜のトンネルにさしかかる。

お母さんはここまでは歩いて来た事も時々はあったが、今日は何かを思い、何かに踏ん切りを付ける為に更に歩き続けた。

駅前の大木の桜のトンネルは見事である、路線バスが下を潜り抜けるのに充分な高さを持ち、その密生度もかなりなもので、日の光も薄い花びらを通しての薄明かりしか届かない様である。

お母さんは桜のトンネルを過ぎたまプラーザに向った。

ここも道の両側が桜並木でなかなかのものである。

鷺沼小学校を過ぎた所の公園ではお弁当を広げてお花見を楽しむ家族連れが一杯で、いかにも春休み真っ盛りであった。

東名高速の陸橋を超え緩やかな坂道を下るとたまプラーザの駅に出る。

ここも道の両側が桜並木で、満開であった。

お母さんは思った7、8年前にはおばあちゃんと僕の3人連れでお花見したのに、今日は1人きりかあ・・・・。

でもこれからももっと一杯お花見を楽しもう、きっと他の二人もそうして欲しいと思ってくれていると、やっと思えるようになった。

お母さんは意を決して更に歩き続け、途中まで引き返し鷺沼から道をそれお友達のKさんの家の前の樫の聞木公園に向った。

このKさんもとても犬好きで、僕の事もとても可愛がってくれ、僕もそれが良く分かり、Kさんが来るとウレションをしてしまうのが常であった。

誰かが訪れて来てウレションをしてしまうのは、このKさんだけだったかもしれない。

お母さんは樫の木公園から北高の脇を通りうさぎ公園へと足を向けた。

お母さんと僕の散歩道である。

お母さんは僕とのお別れの近い事への踏ん切りを付けて来たようである。

そして、風でもげたのか道端に落ちていた10センチ程の桜の枝を拾った。

まだ落ちて間も無いのか、小枝の先には精一杯に咲き誇る桜の花が7、8輪付いていた。

お母さんは少し嬉しそうに、大切そうにその小枝をもって帰ってきた。

3時間近くの散歩から帰って来たお母さんは、ちょうど薄目を開けてぼんやりしている僕の前に来て、「リキ、ほら、桜だよ、見える、何処もきれいだったよ」と、僕の目の前に桜の小枝を差し出してくれた。

はっきり物が見えなくなって来ていた僕の眼に確かな薄いピンク色の桜がぼんやり見えた。

僕の眼は7、8輪の桜で満開になった。

お母さんありがとう、お陰で僕こんな身体になってもお花見が出来たよ、本当にありがとう。

お母さんは僕の涙腺が緩んであふれる涙をいつもの様にティッシュで拭き、自分も同じティッシュで目頭を押さえていた

そして、片手で桜の枝を僕に見せながら、もう一方の手でお水とミルクを少し飲ませてくれた。

こんなに優しいお母さんに乾杯である。

それから、お母さんは可愛い小ビンに水を注ぎ桜の枝を入れ、お仏壇に供え手を合わせた。

 

5分とたたない間に、お父さんとお母さんが血相を変えて車で駆けつけて来た。

僕は車から降りて来たお父さんを見つけても駆け寄ろうとせずに、おばあちゃんの傍を離れなかった。

何時もなら、お散歩の途中でお父さんを見つけた時など、尻尾を振り振り駆け寄ろうとリードをぐいぐい引っ張るのだが、この時はおばあちゃんの傍を離れなかった。

お父さんは「どうした、挫いたのか、立てないって」と、おばあちゃんに問い質した。

一緒に下りて来たお母さんは「大丈夫?、何処か強く打ったの?」と、おばあちゃんに声を掛け、僕のリードをおばあちゃんから受け取り「すいません、有難うございました」と、傍にいた工務店の人にお礼を言った。

工務店の人は「そんなに強く転んだ様に見えなかったんだけどねえ、立ち上がれないと言うんでね」と、その時の様子を教えてくれていた。

お父さんは、少し青ざめて道端に座りこんだままのおばあちゃんに「何処が痛い、足首か?」と、気をつけなければいけない場所を確認しながら、おばあちゃんをそうっと抱き上げた。

起き上がれないことで気持ちが動転していて、何処が本当に痛いのか自分でも分からなくなっていたおばあちゃんは、「兎に角立てへんの」と、照れくささも忘れお父さんの両腕に抱え上げられた。

自分の母親を抱き上げるなどと言う感慨深い経験を、この時初めてする事になったお父さんは、その感慨を感じる間もなく、車の後ろの座席にそうっとおばあちゃんを座らせた。

お母さんは「本当に、有難うごさいました。又改めてお礼に伺います。」と、工務店の人にお礼を言い、僕を抱き上げ車の助手席に乗った。

車の苦手な僕は、車が走り始めると落ち着かず暴れ始めるのが常の僕も、皆の雰囲気が何時もと違い、おとなしく抱かれたままになっていた。

後部座席のおばあちゃんがやっと自分を取戻したのか「あいたたっ」と、車の揺れに応じて身体が動いた事に反応した。

お父さんは「何処が痛い?」と、聞きながらゆっくり目に車を走らせ、家の前の道路脇に止めた。

「外科かあ、小林外科が良いか、ちょっと距離はあるけど評判は良いし、遊園地への途中だし」と、お父さんはおばあちゃんを連れて行く病院を選んだ。

お母さんは「リキを下ろしてお財布持ってくるわ、そうそう、おばあちゃん保険証何処にある」と、次の段取りに入った。

9時前、3人は僕を家に残しその足で病院に向った。

何時かの様に「内緒にしとこうな」では済まない事になってしまったのだ。

病院に向う車の中でおばあちゃんは「すまんこっちゃなあ、余計なことしてしもうて、かえって面倒掛けるなあ、それにリキ怒らんといてな」と、自分の怪我の痛みを棚上げにするような言葉ばかり告げていた。

 

診察の結果、右足の大腿骨の上の部分の腰骨の中に収まる部分の骨折で、手術をして針金を2本骨の中に通し固定すると言う、大怪我である事が分かった。

治療も骨がくっつくのに2ヶ月、リハビリでまあまあ歩けるようになるのに1ヶ月と、3ヶ月の入院を言い渡されてしまったのである。

骨粗そう症の為、そんなに強い衝撃を受けなくても、ちょっとした拍子にでも骨折をしてしまうものだと聞かされ、おばあちゃんの言う尻餅をついただけと言う言葉に今になって頷いていたお父さんお母さんである。

入院の取り敢えずのベッドも決まり、手続きをして看護婦さんに必用になる物の説明を聞き、完全看護だから大丈夫ですと言われ、お昼前に二人は一旦帰ってきた。

僕の表情は何時もと違っていたらしく、何処か申し訳なさそうで、僕を叱る言葉も忘れるくらいであった様である。

ちょうど始業式を終えたお兄ちゃんも折り良く帰って来た。

事情を聞き驚いたお兄ちゃんも、必要になる物を取り揃えるのを手伝い、一緒に病院へ行く事にした。

お父さんはその間に、たった一人の実の姉の本郷の伯母ちゃんに電話をして状況を知らせていた。

伯母ちゃんも驚き、夜家族でお見舞いに来ると返事を返していた様だ。

お父さんは僕の夜ご飯の用意をし、お水をたっぷり目に入れ、帰りが遅くなっても良いだけの準備をしていた。

午後3時に院長先生より、詳しい怪我の症状と入院についての説明があると言われていた事もあり、慌しく3人で病院に向った。

 

足元にドーム型のやぐらを入れ浮いた状態に薄い肌掛けを掛けてもらい、意気消沈して眠っていたおばあちゃんは、お兄ちゃんの姿を見つけホッとした様に「来てくれたんか、学校は」と、少し元気を取戻していた様だ。

お父さんお母さんに面倒掛けて申し訳無いと言う気持ちばかりを持ち過ぎていたおばあちゃんは、まだまだ自分が心配して気をもむ立場になれるお兄ちゃんの出現で少し気持ちが和らぎ、この際だから皆に甘えようと言う気になれた様である。

お父さんは「どう、何か治療してもらったの?」と、足もとの状況をみておばあちゃんに聞いた。

おばあちゃんは「何か、足を引っ張りますとかで、痛み止めの注射を打って針を刺して、それに何や錘を付けて引っ張るとかやってくれはったけど」と、何かすごい事をやられた様な事を話した。

お父さんは何となく恐々と足もとの肌掛けをめくり覗いて見た。

「ええっ」と言うお父さんの表情に、お母さんとお兄ちゃんも恐る恐る覗き込んだ。

ふくろはぎの真中辺りに、畳針のような太い針を衝き通され、針の両側に細めのロープが掛けられ、その先はベッドの足もとの滑車を通って下の錘に繋がっていた。

衝き通された針の両側のふくろはぎにはヨードチンキがペットり塗られていたのである。

刺さっている針の太さに身の縮む思いのお父さんは、少し落ち着いて「ふーん、こうやって突っ張って固定するんだ」と、その仕組みに感心する素振を見せた。

「それで、固定してもらったら痛みは少し収まった?」と、おばあちゃんを気遣った。

「そうやなあ、なんや、ようわからんけど、少しはええみたい」と、少し甘え口調でおばあちゃんは話した。

「ほんまに、えらい事してしもうたわ、こんな大事になるやなんて」と、申し訳なさそうに続けた。

お父さんは「それだけ骨が弱くなってたんだなあ、まあ言い機会だよ、ゆっくり静養するんだな」と、おばあちゃんを慰めた。

動転していたおばあちゃんは、優しい言葉に「そやけど、帳簿どうすんの、あんたやれるか?」と、仕事に対する心配をし始めた。

お父さんは「そこまで気が回るぐらいなら大丈夫だな」と、意気消沈しきっていたおばあちゃんの落ち着きにホッとしていた。

二人の会話に、お母さんとお兄ちゃんも笑顔を見せていた。

 

3時になりお父さんは院長先生の所へお話を聞きに行った。

「このレントゲン写真を見てもらえば分かる様に、大腿骨頭の骨折です。これは骨粗鬆症の進んだお年寄りには多いんです。

只この場所は良く動くところで、固定する事が困難なので手術をして、骨の中に太い針金を2本入れて固定します。

3、4日中には手術をしますがそれまでは、足を吊って固定しておきます。

ご覧になったと思いますが、ちょっと痛々しい格好になりますが、固定するには止むを得ません。」と、院長先生は怪我の状況と今後の治療についての説明をお父さんに聞かせた。

そして更に「お年寄りなので骨がつくのに2ヶ月、その後リハビリをして歩ける様になるのに1ヶ月、都合3ヶ月の入院をして頂く様になります。そこで、ご家族の方にご協力をお願いしたい事があります。」と、何か気になる話をし始めた。

「お年寄りの足の怪我の場合、ベッドから出られない期間が長くなり、その間に痴呆症を発症してしまう事が時々あります。完全看護とは言え精神的な刺激などのケアをご家族の皆さんに協力して頂きたいのです。」と、お父さんに長期療養の為に危惧される所を話して聞かせた。

 

お父さんが病室に戻ってきた。

「大体3ヶ月掛かるって、手術は2,3日の内にやるそうだよ。手術については通常やるものでそんなに心配はないそうだよ。只入院が長いから呆けない様にって。」と、お父さんはそれ程深刻でない素振であっけらかんと話した。

おばあちゃんは「ああ、そうかあ、有難う。そやけど、呆けん様にて言われてもなあ」と、ベッドの傍に居たお兄ちゃんとお母さんに何か同意を求める様に顔を見合わせて言った。

お父さんは「いや、要するに環境と生活のリズムがすっかり変ってしまうから、昼間から寝てばっかりになり、刺激もなくなって呆けてしまうらしいよ。

だから、手術して落ち着いたら少しずつ帳簿を持って来るよ。」と、おばあちゃんに告げた。

お父さんの提案に始めは3人とも「ええっ」と言う顔したが、おばあちゃんが「まあそやなあ、帳簿がどうなってるか気いもんでるより、少しでもここで出来たら、かえってええかもなあ」と、自分が呆け防止の為に続けている帳簿の持ち込みを、むしろ望む言葉を返した。

お父さんは「まっ、自分は毎日遊園地の行き帰りに寄れるし、昼間の時間だけあんまりボーとしない様にしてれば心配ないよ」と、少し労わりの優しさを覗かせた。

お父さんは根っからの硬派で、学生時代にはラグビー一筋で、女、子供への優しさを表現する事に特に苦手意識を持っていた人である。

そのくせ人一倍家族思いで、その思いを常々言葉に出せば良い所を、テレがあるのか口に出す言葉は何時もきつい物になる事が多かった。

僕にだけは優しさをストレートに表現してくれるのだか、それも僕が積極的に甘える事を厭わなかったからなのだろう。

お父さんはその優しさを本当に必用とした人には、それはそれは人も真似できないくらいに優しくなれるのである。

 

その後3ヶ月お父さんは1日も欠かさず病院通いを続けた。

朝は今までより30分早く出て、病院の朝食に付き合い、遊園地の帰りに叉病院により、夕食後の自分の母親の入れ歯の洗浄をするのが日課になった。

そして週1、2回はお母さんとお兄ちゃんが顔を見せに来た。

おばあちゃんもとても呆けるどころではなく、帳簿もやり、お兄ちゃんの受験の心配もしと、結構刺激のある入院生活となった。

お父さんに甘える事が苦手だったおばあちゃんも、すっかり甘える事を潔しとするようになり、色々と家族の刺激を受けながら、治療とリハビリに専念する事となったのである。

仕事上やむを得ない時以外は、余りに熱心に通ってくるお父さんの事が病院でも評判になり、「優しい息子さんで良いわねえ」と、おばあちゃんは羨ましがられる程であった。

おばあちゃんが退院して帰ってくるまで僕の晩酌のお相手は、お預けになったままになってしまった。

元はと言えば僕が原因の今回の事件も、自分の母親への優しさを伝える事の出来る良い機会になったと、良いように採ってくれたお父さんである。

お陰で僕の立場も助かり、大怪我をさせた愛犬としての汚名は着る事が無くなったのである。

そして、3ヶ月後おばあちゃんは右手に杖を持ってやっと帰ってきてくれた。

僕は嬉しかった、「だだいま、リキさん、昼間はひとりで大丈夫でしたか」と、おばあちゃんが僕に話しかけた時、いきなりはおばあちゃんに擦り寄る事が出来なかった。

それでも、1週間ほど静養すると叉始まったおばあちゃんの晩酌のお相手はしっかりと僕が勤める様になったのである。

おばあちゃんの入院中にはお兄ちゃんも、大学の指定校推薦に受かり、春からは6大学の学生になる事を約束されていた。

お父さんの出身校とはラグビーの宿敵に当るが、お父さんもお母さんも現役で受験を見事突破したお兄ちゃんをとても親孝行だと喜んでいた。

おばあちゃんには甘えが先行するお兄ちゃんも、傍にいなかったことで奮起した結果、おばあちゃんに良い所を見せられた様である。

こうして、この家にとっての今回の大事件も、痛さを堪えて先ず告げた「リキ怒らんといてなあ」のおばあちゃんの一言が、皆を思い遣る心に広がり、おばあちゃんの右足の中に太い針金を残しただけで、家族の優しさをお互い知り合える、良い機会となったのである。

10 シトリンクォーツ(治癒)

その年の夏はとても暑い夏であった。

遊園地にはプールがあり、夏が暑いと入場人員も増え、お父さんの仕事も忙しくなる。

夏休みになると、お母さんは勿論、お兄ちゃんもアルバイトに借り出される。

7月の中頃から8月の終わりまで、休園日もなくなり50日間以上連続出勤の日が続くのである。

お父さんとお母さんは毎年夏になると、「この体力何時まで続くかねえ」と、お互いの身体を気遣いながら、気力で乗り切って来ていた。

暑さが厳しいと疲労も増すのだが、それだけお客様も増え売上にも繁栄されることで、二人は気力を更に奮い立たせ、その繁忙期を乗り切るのである。

悲しい商人の性とでも言うのか、売上に繋がる事であれば、わが身を削る事を厭わないのである。

お兄ちゃんは大学受験の年なので、例年よりはアルバイトの日数を減らしていたが、それでも土日、お盆と手伝いに出かけていた。

8月後半になると、「後何日で休園日が来る」と、それだけを楽しみに、ひたすら仕事場に向うのが通年の事になっていた。

 

僕とおばあちゃんは毎日お留守番で、暑い昼間はエアコンの効いたおばあちゃんの部屋で過ごす事が多くなっていた。

おばあちゃんは二人きりになると、僕に良く話し掛けて来た。

店を開けていた時は、お得意様や近所の人など、世間話の相手には不自由しなかったが、ここに引っ込んでからは近くに特に親しい人も無く、昼間の話し相手は専ら僕と言う事になっていた。

おばあちゃんはお父さんお母さんに「このひとが居てくれるお陰で、昼間の一人も寂しゅうのうて助かるわ」と、よく言っていた。

僕の表情もとても良く理解してくれる様になり、お母さん達の帰りが遅くなり、空腹を我慢していると、「リキさん、お腹空いたやろ」と、ご飯の用意をしてくれる事もあった。

そして、ドッグフードの夕飯を済ませると、晩酌のお相手をさせてくれた。

僕もおばあちゃんが居てくれる事で、寂しさも忘れる事が出来た。

おばあちゃんにとっても、僕にとってもお互いが、とても大切な存在になっていたのだ。

 

9月に入った最初休園日がやっとやって来た。

お父さんとお母さんの二人は疲労の極地からの脱出を、ひたすら朝寝する事に求めた。

お兄ちゃんもその辺の事情を承知していて、朝からご飯党のところをお母さんに「明日は始業式だけだから、パンと牛乳でいいから、お母さんは起きなくてもいいよ」と、寝る前に優しい言葉を掛けていた。

お母さんはリキには少し我慢してもらって、10時まで寝かせてもらおうと決め、本当に久し振りの朝寝をゆっくり楽しんでいた。

お兄ちゃんは学校へ出かける時おばあちゃんに「今日はお母さんも朝ゆっくり寝かせてもらうって言ってたよ」と、お母さんが朝起きてこなくても心配しない様に告げて行った。

おばあちゃんも「そりゃ、そうやろ、昨日まで休み無しやったさかいなあ」と、お父さんとお母さんをしっかり休ませてあげたいと思った。

 

何時もなら、先ずお母さんが降りて来て「リキ、おはよう」と、声を掛け、カーテンを開け朝の明るさを部屋に注ぎ込み、僕の飲み水を新しい物に替えてくれる。

お兄ちゃんの朝食を用意し学校へ送り出してから又、2階へ上がり洗濯物を干したり、掃除をしたり一通りの家事を終えてから、僕のお散歩に行ってくれるのだ。

僕はお母さんの動き回る足音に耳を澄ませ、家事の捗り具合を想像しながらお母さんを待つ。

今の僕は容易に2階へ上がる事も出来るのだが、以前上に上がってお母さんに纏わり付き、お散歩をせがんだ時、お母さんに「リキ、邪魔でしょ、お仕事が早く終わらないとお散歩に行けないよ」と、叱られ下で待つように躾られ、それ以来僕は階段の下で待つようになった。

季節の変わり目だったりで家事が多くなり、待つ時間が長くなるとお母さんが2階から顔を出し、待ち遠しそうに見上げる僕に「ゴメンネ、もう少し待ってね」と、声を掛けてくれる。

僕はお母さんの動き回る足音が聞こえる限り、「もう、降りて来てくれるぞ」と、楽しみに待った。

 

その日は、何時もと違ってお兄ちゃんだけが先に降りて来た。

カーテンを開け、窓とドアを開け放ち風通しを良くしていた。

9月とは言え、まだまだ夏の名残りたっぷりで、部屋の中は蒸し暑さを感じ始めるぐらいになっていた。

牛乳とパンで朝食を済ませたお兄ちゃんは、8時前に学校へ出掛けて行ってしまった。

僕はお母さんが降りてこない事で、何時もよりまだ早い時間なのかと思い、もう少し眠ることにした。

開け放たれた窓から、夏休みを終え、久し振りに逢う友達と楽しそうに登校する子供達の賑やかな声がどんどん増えて来た。

車の往来の音も多くなり、朝の時間がそれなりの時間に達している事を知らせていた。

僕はすっかり目を覚ましてしまった。

階段の下へ行き、お母さんの足音を探ろうと耳を澄ませた。

下のおばあちゃんの部屋からは朝の日課になっているお仏壇のお参りの音や炊事の音がいつもの様に聞こえてくるが、2階からは物音がしてこないのだ。

一生懸命耳を澄ますが、人の起きている気配がない。

僕は少し尿意も模様して来たので、お散歩の催促で上へ上がって見た。

寝室の前を爪の音を『シャカ、シャカ』と立ててうろついた。

お母さんが思わず寝坊してしまった時など、この爪の音を聞きつけ、あわてて寝室から出てきた事もあったのだが、今日はそれも無かった。

耳を澄ませると、ドアの向こうから二人の気持ち良さそうな寝息が聞き取れる。

僕はどうしても二人のどちらかを呼びたい時は、前足で寝室のドアをカリカリ掻くのだが、なんとなくそれをせず諦めて下へ下りて行った。

僕なりになんとなく、そっとしておいた方が良いような雰囲気を読み取ったのかも知れない。

 

尿意のおさまらない僕は、下のおばあちゃんの部屋へ救いを求めに行った。

僕を見るとおばあちゃんは「あらっ、リキさん、おはようさん、どうしたんえ、オシッコか、可哀想に」と、僕の表情を直ぐに読み取った。

そして「今日はなあ、お母さん疲れてるから、もうちょっと寝かしといたげてんか、なあ」と、僕にお願いをしていた。

話し掛けてくれるおばあちゃんの言葉に、首を傾げる僕に「そうかあ、我慢できひんか?しょがないなあ」と、何かを決してくれた様である。

「ええか、内緒やで、絶対リキの散歩はあかんて言われてるんやからなあ」と、内緒の相談の様である。

おばあちゃんは下の部屋の戸締りをし、お仏壇のおロウソクを消し、火の始末の確認をしてから僕の首輪とリードを取りつけてくれた。

「この前と違うて、今日は明るいさかい大丈夫やろ。リキその代わりゆっくり行ってや、ええな、ほな行こか」と、お散歩に連れ出したくれたのだ。

我慢の限界に近づいていた僕は、喜んで玄関に出た途端はしゃぎすぎてチビってしまった。

おばあちゃんは「まあまあ、可哀想に、ギリギリやったんか、はいはい、わかったわかった、ゆっくりえ、ええな」と、念を押しながら僕の後をリードを持ってついて来た。

僕は出て直ぐの電信柱で早速溜まっている物を出し、ホッとして後はゆっくりペースでのお散歩をした。

ゆっくりとした坂道を下り、何時もの所で排便も済ませ、何時かの夜におばあちゃんに怪我をさせてしまった所も無事に過ぎた。

おばあちゃんは、明るければまだまだ大丈夫と、少したかを括り始めていた。

自分の運動不足の解消にも良いからと、もう一つ向こうまで回って帰ろうと思い、快い僕との散歩を続けた。

 

顔見知りの人がいる工務店の前に来ると「あれっ、今日はおばあちゃんと散歩かい、良いねえ」と、声を掛けられおばあちゃんは会釈を交わしていた。

8時半をまわったところで、これから板場に向おうとする人達が何人か表に出ていた。

おばあちゃんが声を掛けられた方に気を取られ、前方に意識が無かった時、20メートルほど先の曲がり角に犬が現れた。

僕は他所の犬を見ても突っかかる事は無く、2、3歩歩出て視線を送るぐらいなのだが、この時はたまたま歩出た時にリードがおばあちゃんの両足元にからみ、足の自由を奪われたおばあちゃんは尻餅をついてしまった。

僕がそんなに強く引っ張った分けでもなく、そんなにひどい転び方でもなかったので、その様子を見ていた工務店の人も「あらあら、大丈夫ですか」ぐらいで、直ぐに立ちあがれるものと思い、駆け寄る事も無く、転んでしまったおばあちゃんの照れもあるだろうと、遠巻きに見ていた。

おばあちゃんは照れくささ半分に、苦笑いをしながら立ち上がろうとするのだが、立ち上がれない。

この前は前向きに転んだので、手をつくことが出来たのだが、今回は手をつく間もなくお尻から落ちてしまったのだ。

更に間の悪い事に落ちた場所が丁度コンクリートの溝板の上だったのだ。

何時もに無い痛みも出て来たのか、おばあちゃんの顔つきが変わってきた。

僕は転んでもリードを放さないでくれているおばあちゃんに寄り添った。

おばあちゃんは「リキ、ゴメンなあ、立てへんの」と、僕に誤り、照れくささもすっかり無くし、さっき声を掛けてくれた人を呼んだ。

「すんません、挫いたらしく立てないんですわ、近くなんでちょっと家の者に電話してくれませんか」と、お願いをした。

工務店の人は快く「あっ、いいよ、坂を上がった所の角の家だよねえ、番号は」と、直ぐに対応してくれた。