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僕は6歳を超えすっかり大人になっていて、体重も15キロを超える中型犬としても大きいぐらいにまで成長をしていた。
去年の5月以来、ある事がキッカケで僕とおばあちゃんの間に一つの秘密が出来ていた。
ゴールデンウイークは遊園地の掻き入れで忙しく、お父さんお母さんは勿論、高校生になったお兄ちゃんも立派な戦力として仕事のお手伝いをしていた。
おばあちゃんは歳もとった事だからと、2年ほど前に長年守ってきた店をたたみ、自宅で呆け防止の為にもと経理の仕事だけをやっていた。
税理士の先生には「このお歳になられても、これだけの帳簿をやられるのは、たいしたものですよ」と、何時も誉められていた。
仕入れと売上の主だった所はお父さんがパソコンでやっていたが、経理関係は主におばあちゃんの仕事になっていた。
お父さんも仕事をやろうと言う、意欲のあるおばあちゃんを嬉しく思っていた。
お母さんは、店を止め家にいる事が多くなったおばあちゃんを、花見の時期になると声をかけ散歩に連れ出した。
朝の僕の散歩の折りに、一人で見るにはもったいないと思えるほどの満開の時期になると、梅、桃、桜、と夫々の花見に僕とおばあちゃんとお母さんとの三人連れの散歩をするのだ。
5月になると、近くにある新緑の植木の里を回り、ちょっとした森林浴を楽しんだ。
おばあちゃんもとても喜んでいた。
僕の身体が大きくなりぐいぐいリードを引っ張る力が強くなり、引きずられそうになるとお母さんがおばあちゃんに必ず言う言葉があった。
「危ないから、もう絶対おばあちゃんはリキの散歩はさせないでね」と、注意をするのである。
僕の小さい頃は、お父さん達の仕事が忙しい時「私が、やっておいてあげる」と、僕のお散歩のお相手をかって出た事もあったからなのだ。
ゴールデンウイークの最後の日、今日はスタッフ皆で打ち上げをやるから3人は遅くなると言われ、僕とおばあちゃんでお留守番をする事になった。
10時を過ぎて、皆が何時に帰ってくるか分からないからと、僕をお散歩に連れていってくれた。
我慢して待っているのが可哀想だからと言う僕への思い遣りと、疲れて遅くに帰って来てからのお散歩が、お父さんに大変だろうと言う両方の思い遣りで、お母さんやお父さんにされている注意を破っての決断であった。
おばあちゃんは僕とお散歩に行く時は「ゆっくり行ってな。引っ張らんといてや」と、何度も何度も繰り返し話しかけながら出かける。
僕も何時の間にか承知をしていて、何時もの半分ぐらいの距離を同じぐらい時間をかけて回ってくる。
その日も同じように、ゆっくりペースでお散歩をしていた。
おばあちゃんも僕が何時もと違うゆっくりペースでいる事を信頼し安心していた。
緩やかな坂道を下り、何時もウンチをする辺りでウンチをし、おばあちゃんが後始末を終えホッとした時である。
直ぐ前の垣根から急に猫が飛び出し、驚いた僕が反対方向に逃げ出そうとした時、リードを思いも掛けない方向に引っ張りおばあちゃんを転ばしてしまった。
おばあちゃんが咄嗟の時、僕が道路に飛び出せない様にと、リードの輪の部分を手首に通していたのが仇になったのだ。
転んだ拍子に手のひらと膝に怪我をさせてしまったのだ。
夜でもあり、周りに人目もなかったので、おばあちゃんは自力で立ちあがり、膝と手の泥を叩き落としていた。
転んだ場所が、歩道から少し空き地に入った土の地面だった事が幸いした様だ。
僕は申し訳なさそうに、おばあちゃんに寄り添った。
かなり痛かった様だが、気丈なおばあちゃんは、「大丈夫え、お父さんには内緒にしとこな」と、怪我を隠す算段を僕に持ちかけていた。
おばあちゃんも立ち上がる事が出来て何処かホッとしていたのだ、と言うのも骨粗しょう症が進んでいるので骨折には気を付ける様にとお医者さんに言われていたのである。
少しビッコを引きながら家に帰ったおばあちゃんは、怪我の消毒をし、シップを貼って先に床に就いた。
リビンクのテーブルには「リキの散歩は済ませました」のメモ書きが置かれていた。
翌朝シップを貼っている所を家族に見つかり、問い質されたがおばあちゃんは、決して僕が怪我をさせてしまったとは言わずに、躓いて転んだだけだと言い張っていた。
それでも、きっとリキの散歩で転んだに違いないと推測され、皆の役に立とうとした事への行為には感謝されつつも、くれぐれもリキの散歩だけはしない様に念を押されていた。
僕とおばあちゃんの仲は、内緒の秘密が出来てから一層仲良くなった。
その頃、おばあちゃんが家にいられる様になった事で、今度はお母さんが殆ど毎日遊園地の仕事に出る様になっていた。
昼間はおばあちゃんと二人だけのお留守番の日が殆どである。
真夏のうだる様に暑い日、冬の底冷えのする日等は、エアコンの効いたおばあちゃんの部屋へ招き入れられ過ごした。
元々室内犬でない僕の毛は、シーズンの変わり目だけでなく、1年中生え変わる様になり、家中に僕の毛が舞うようになってしまった。
家族の誰もが、ちょっとオシャレをして出かける時は、ガムテープが必需品になってしまっていた。
お父さんは冗談に「家中のリキの毛を暫く貯めておいたら、立派なセーターでも出来そうだなあ」と、言う始末である。
家族に掛けてしまっている色々な負担も、僕が家族の一員だと言うことだけで当たり前の事として受け入れられているのだ。
この頃食べ盛りの僕の夕飯タイムは3段階あった。
リビングで3人が食事をする時、食卓に食事が並び始める前に、階段の上がり口に僕用の食事が用意される。
そして、皆が一緒に食事を始める。
用意された第1段階のドッグフードを先に食べてしまうと僕は、食卓のお父さんの席の傍にお座りをして、おかづのお裾分けを待つのである。
ほんの一口だが、お父さんから貰うと今度はお母さんそしてお兄ちゃんと、一口ずつ貰うのだ。
僕と同じ様に食べ盛りのお兄ちゃんが最後に食事を終えると、「ごちそうさま」と、言ってから僕に「リキ、もう無いよ」と、お裾分けの無い事を両手を広げて告げ、第2段階を終える。
お酒を飲まない夕飯は15分位で終わってしまう。
それから、僕はリビングの下へのドアの前で、開けてもらう様せがむのだ。
誰かに開けてもらうと、階段を降りおばあちゃん部屋へ行く。
若い連中と年よりじゃ食べ物も違うし、ゆっくり晩酌を楽しみたいからと、おばあちゃんは自分の食事を部屋の前のミニキッチンで作り、一人で食事をとっていた。
お仏壇の前に置かれたやぐらコタツの、入り口側に座椅子が置かれ、奥のテレビを見る向きで食事が用意されている。
お仏壇の向い側には古いバスタオルが2つ折りにして敷かれ、その前のコタツの食卓に白い陶器の取り皿が用意されている。
これと言った趣味を持たないおばあちゃんが、唯一の毎日の楽しみの晩酌を始める。
僕のカシャカシャと言う爪の音がすると、おばあちゃんはドアを開け僕を部屋に入れてくれる。
僕はいつもの様に古バスタオルの上にお行儀良く座り、おばあちゃんのお箸の行方を追う。
から揚げを半分かじっては食べ、残りを僕の前の白い器の上に置いてくれるのだ。
僕は黙って待つ。
第3段階の始まりである。
「リキ、よしっ」と、おばあちゃんが言ってくれると初めて、僕はペロリとそれを食べる。
ゆっくりとした晩酌付きの夕食の間中これが続くのである。
僕の座高は60センチ余りにもなり、僕がおばあちゃんのお箸の行方を追うと、それは催促になり、何かを器に入れてくれる。
応答の無いテレビだけを相手に食事をするのでなく、僕に「おいしいか?もっと食べるか?」と、しゃべりながらの食事はおばあちゃんも楽しげで、僕もとても嬉しい。
お父さんが食事を終え一休みして帳簿の事務処理をと、おばあちゃんの部屋の横のパソコンルームに下りてくる時、この様子を見つけてニコニコしながら「おおっ、リキ、晩酌のお相手ですか。あまり食べ過ぎない様にね」と、ちゃかして行くのである。
リビングでの食事が自分の得意な物で無く、なんとなく物足らない感じのお兄ちゃんも一緒に、おばあちゃんの夕食のへずりに参加することもあった。
こうして僕の食事の3段階は終了する。
お母さんは「食べ過ぎにならないでね」と、そればかり気にしているが、幸いお腹の部分のきゅっと引き締まった体型は、またまだ維持できている様である。