天国のRIKI

全てノンフィクション。あなたの周りにもこんなドラマが。

1時間ほども経ったのだろうか、玄関のチャイムの音がソファーの後ろのホームテレホンから聞こえた。

僕は聞き慣れない音に目を覚ました。

まだ、お母さんの太腿のベッドの上に抱かれていた。

聞き慣れない音に首をもたげた僕にお母さんは、「大丈夫よ、ねんねしてなさい」と、持ち上げた頭を優しく撫でながら受話器に手を伸ばした。

「はいっ、」とだけの応対に、来客でないだろうの想像が含まれていた。

「おかえり、今開けるよ、ちょっと待って」と、にやついた顔でお母さんが答えている。

「リキ、ごめんね、お兄ちゃんが帰って来たからお迎えに行かなくちゃ」と、お母さんはまだ少しトローンとした目で寝そべっている僕を胸元に抱き上げ、玄関へドアを開けに行った。

 

「ただいま」と、お兄ちゃんは何時も通りの表情で、黄色い通学帽を脱ぎながら言った。

「おかえり」と、何時も通りのお母さんのお迎えに、ちらっとだけ目をやり、玄関に入ったお兄ちゃんは、何時も通りに振り返ってドアに鍵をかけた。

そして、靴を脱ぎ玄関を上がろうとした時、何時もなら「どうだった、何か連絡は」と、話し掛けながら先にリビングヘおやつの用意に向かうお母さんが、何時もと違って、まだそこにこっちを向いて立っていた。

それに、今日は「おかえり」の後に何の言葉も発していないのだ。

ちょっと何時もと違う、何やら策略めいたものにお兄ちゃんは気付き始めていた。

あれえっ、と言う思いでもう一度お母さんの顔を見た。

お母さんの顔がやけににやにやしている事に改めて気付き、「どうしたの」と、お母さんに問い掛けた。

その時お母さんの胸元で、急に何やら動く物を発見したのだ。

不覚にも僕が、少し眠りから醒めてあくびをしてしまったのだ

居眠りから完全に目覚めていなかった僕は、お母さんの腕の中でじっとしていて、何か毛皮の襟巻きをくるくると丸めて抱えているような、お兄ちゃんにとってこれといった違和感の感じられない状況だったのだ。

その襟巻きのような物が突然あくびをしたのだから、お兄ちゃんはびっくり。

ちょっと大きめでちょっと垂れ下がった目を白黒させ、

「どうしたのうっ、貰ったの、飼うのっ、ええっ」と、何時もなら給食袋はダイニングに置いて2階の自分の部屋にランドセルを置きに行ってから、リビングに下りてくるお兄ちゃんは、いきなりランドセルを玄関横の畳の部屋に半分放り投げ状態で、僕の方へ両手を出してきた。

あーあっ、やっと気付いたねと言う顔で「さっき、お父さんが連れて帰って来たの」「ほらっ、まだ小さいから気をつけてあげてね」と、お母さんは僕を大切そうに差し出した。

「うわあっ、ほんとだ、かわいいねぇ」と、両手に僕を受け取ったお兄ちゃんは、すぐさま胸元へ引き寄せ両手を胸に巻きつかせるように僕を抱いた。

「そんなにきつく抱いちゃ可愛そうよ」と、お母さんはその加減を教えた。

元々乱暴でないお兄ちゃんは僕を大切にするあまり、ついついその腕に力が入りすぎたようだ。

お母さんに言われて少し力を抜いたお兄ちゃんは、僕がずり落ちない様に片手を下に添え、片手と胸で僕をはさむ感覚を早速覚えてくれた。

小学校6年生、まだまだ小さい抱き籠であった。

それでも、僕を大切にしてくれる気持ちは充分に伝わる、楽しい抱き籠であった。

その頃には、僕の目もすっかり醒め、安定した抱き籠の中でキョロキョロし始めた。

 

「さあっ、上へ行くよっ」と、お兄ちゃんは僕を抱いたままリビングヘ上がった。

周囲に新聞が敷き詰められた様子に、お兄ちゃんは「なにっ、どうしたのっ、これ」と、放り出したランドセルを持って後から上がって来たお母さんに問い掛けた。

「うーん、だってオシッコとかウンチとかおもらしされたら大変だもの」と、答えるお母さんに、

「ええっ、じゃっ、ここで飼えるの」と、お兄ちゃんはまた目を輝かせていた。

「でっ、名前は、なんて言うの、決めたの」と、お兄ちゃんは思いも掛けない嬉しい出来事を確かめる様にお母さんに聞いた。

「そうっ、さっきお父さんと決めたんだけど『リキ』、どうっ」と、自信ありげにお母さんは答えた。

「リキ、リキかあ、いいねえ、格好良いじゃないリキ」と、満足そうに僕の名前を口ずさみながら、お兄ちゃんはまだ胸元に抱えたままの僕に目を落としてきた。

『リキ』の響きにとってもいい感触を持っていた僕は、お兄ちゃんの顎の辺りをペロペロ舐めた。

「うわあっ、くすぐったいよう、リキ」と、ちょっとてれた様子のお兄ちゃんである。

始めての小動物からの愛情表現を受け、嬉しそうで恥ずかしそうな、本当に優しそうなお兄ちゃんだ。

「ほらっ、いつまでも抱いてると、抱き癖がついちゃうよ、手を洗っておやつにしなさい。」と、お母さんか言うと、

「はあーいっ、じゃ、降りててね、リキ、後で又遊んであげるからね」と、自分がこの小いさな動物に受け入れられた自信をうかがわせ、しゃがんで僕を床に降ろし、お兄ちゃんはおやつの時間をとる事にした。

 

おやつを食べながらの何時もの会話も、わりと親子の会話のの多い二人の中でも、今日は特別に弾んでいた。

お母さんは突然のお父さんの電話から始まった今日の出来事とを、順序だてて話した。

お兄ちゃんの驚いた嬉しそうな顔も想像しながら、僕を飼う事にした事も含めて伝えた。

お兄ちゃんは本当は欲しかったが、どのように手に入れるものかさえ知らなかったと話した。

 

おやつを食べながらも、リビンクをチョコチョコ歩き回る僕に視線は釘付けのお兄ちゃんは、気もそぞろ、最後のクッキーを手にすると口には運ばず「ごちそうさま」と、言いながら早速僕の方へ近づいて来た。

「リキ、食べる」と、僕へのお裾分けのクッキーを差し出した。

「あらっ、リキ、いいねえ、お兄ちゃんがくれるって」と、お母さんがその様子を見守っていた。

「小さく砕いてあげないとだめかもよ」と、付け加えたお母さんは「でも、何でもあげない様にしないとね」と、僕の飼い方の教えを少しほのめかす言葉も付け加えた。

お兄ちゃんはクッキーの半分ぐらいを噛み砕き、手のひらに載せ僕に差し出してきた。

美味しそうなバターの香りに引かれ、小さな塊と粉々になったクッキーをペロペロと食べ始めた。

お兄ちゃんも口に残った半分のクッキーをモグモグと食べていた。

僕とお兄ちゃんのおやつタイムである。

手のひらの粉々になったクッキーを舐め採ると「くすぐったいよ、リキ」と、お兄ちゃんは嬉しそうにてれていた。

お兄ちゃんはリビングに腹ばいになり、僕と遊んでくれた。

20センチ余りの僕の背丈まで目線を下げてくれるお兄ちゃんの僕へのお相手は、仲間になってくれる感じがしてとても楽しかった。

前足を前に突き出してふんばり、お尻を上にひょこっと突き出し、尻尾を振り振りお兄ちゃんの手にじゃれついた。

「あっ、そうだ、そろそろオシッコでしょう。させてみようか」と、二人の様子をにこやかに見守っていたお母さんが言った。

「えっ、どうすんの」と、お兄ちゃんは少し戸惑いをみせた。

「そうねえ、裏の駐車場の所なら大丈夫じゃない」と、首輪もリードも用意されていない僕の始めてのお散歩の場所を提案した。

「リキ、はいっ、おいで、オシッコしに行こう」と、お兄ちゃんが僕を両手と胸で作る覚えたての抱き籠に抱え、お母さんと一緒に玄関へ向かった。

 

お兄ちゃんは、それまで不安と言うものを全く感じる事なくおおらかに育ってきたこともあり、明るく陽気で、とても気立てのいい子供であった。

一ヶ月後に中学受験という、自分に初めてとも言える試練の時を迎え、不安と緊張の重圧は、彼の明るさや優しさに少し影を落とし始めていた。

そんな時に突然現れた、この上なく愛らしい弟分である。

『お兄ちゃんが面倒みてあげるからね』と言う、自分よりか弱いものに注ごうとする愛情の芽生えは、自分らしさを奪い取り始めた重圧を跳ね飛ばすのに最適な事柄のようであった。

最近なんとなく疲れた風な言葉を言う様になり、少し明るさや優しさを無くし始めていたお兄ちゃんのその顔からは、不安だの緊張だのと言う、子供らしさを無くす後ろ向きな思いはすっかり消えうせていた。

『僕がお兄ちゃんだ』と言う、何やら責任感らしき自信めいた物が新たに生まれてきたようであった。

お兄ちゃんが僕に言う『後でねっ』は、まさにその現れである。

お父さんが僕をこの家に連れて来たのは、少し苦しみ始めていたお兄ちゃんの気持ちの和みに役立てばとの思いもあったのだ。

それが結果として、もう一つ上の成果を期待できる、素晴らしい巡り合いを作っていたのだ。

僕達小さな生き物は、その接する人との愛情の在り方によって、この上なく素晴らしい世界と時間を作っていける物の様である。

 

6時半を過ぎる頃お兄ちゃんが、「お父さんはまだ?」と、二階の自分の部屋から降りて来た。

その日は週3、4回の塾通いも無く、ひとしきり僕と遊んだお兄ちゃんが、お母さんに「お勉強は」との

何時もよりやさしめの小言に、何時もより素直に「じゃっ、リキ、後でね」と、言い残して階段を上がっ

て行ってから2時間ほど経っていた。

「あらっ、もうこんな時間、急がなくっちゃ」と、夕食の準備に取り掛かっていたお母さんはその手を早めた。

「リキ、おりこうにしてた」と、お兄ちゃんが両手で僕を抱え上げ、ソファーに腰を下ろし僕を膝の上に置いた。

僕はお兄ちゃんが二階へ上がっていった後にもひと寝入りし、またすっかり元気になっていた。

僕は又遊んでもらえる、楽しい時間を期待した。

お兄ちゃんは「リキ、お腹空いた?」と、僕に話しかけ「お母さん、リキのご飯は?」とお母さんに聞いた。

「そうねえ、ミルクは飲んだけど、お父さんが何か餌を買って来てくれるでしょ」と、お母さんが答えた。

車が駐車場に止まる音が聞こえ、少しして玄関のドアの鍵を開ける音がした。

「お父さんだ、リキ」と、お兄ちゃんは僕をすっかり覚えてくれた抱き籠に収め、玄関へお迎えに行った。

お母さんも、夕食の準備の手を止め、後を追った。

「お帰り」二人のお迎えに「おおっ、ただいま」と、何時もならお母さんだけのお迎えが、二人揃っている事にちょっと驚き気味のお父さんである。

そう、二人だけでなくお兄ちゃんの腕の中にはしっかりと僕もお出迎えの仲間入りをしていたのだ。

「おお、リキお前もお迎えに来てくれたの、よーしよしよし」と、お父さんは僕の頭を撫でながら、手に提げていたホームセンターの袋をお母さんに手渡した。

「やっぱり、買って来てくれたんだリキのご飯」と、お母さんはその中を改めながら言った。

その中には可愛い小さな首輪とリードも入っていた。

 

リビングダイニングに戻った3人は、何時も以上に会話を弾ませた。

中でもお兄ちゃんは僕を連れて来てくれてありがとうの意味のこもった言葉を次から次へと興奮気味に話した。

「お父さん、この子おりこうなんだよ、さっき裏の駐車場へオシッコさせに連れていったら、ちゃんとそこでしたんだよ、ねえ、お母さん」と、お兄ちゃんが僕のしつけ役になれている事を自慢げに伝えると、

僕をお兄ちゃんの手から譲り受けながら僕に「ほうっ、リキ良かったねえ、お兄ちゃんに色々教えてもらえるんだ」と、お父さんは満足そうにソファーに腰浅に深く寄りかかり、斜めになった大き目の胸元に僕を乗せてくれた。

あの暖かいセーターの感触に嬉しさがこみ上げてきた僕は、お父さんの首から顎の辺りをペロペロ舐めまわした。

自由にさせてくれるお父さんに更に嬉しくなり、足もとの悪い胸板の上に立ち上がり、今度は立ちあがった事で届く様になったお父さんの口の周りから鼻の周りまでペロペロ舐め尽くした。

少しよろけて爪を立てて首の辺りをひっかきそうになっても、優しく手を添えて何処までも自由にさせてくれるお父さんであった。

その様子を傍らで、お父さんの愛情の大きさを再確認した思いで、嬉しそうに見ていたお兄ちゃんに、

夕飯の用意をしていたお母さんが「お兄ちゃん、リキのご飯用意してあげて」と、小さなステンレスのボールとお父さんが買ってきたドッグフードを差し出した。

お兄ちゃんは「はいっ」と、何時も以上に聞き分けの良い返事をし、お母さんにこれぐらいかなあと相談しながら僕の夕飯の用意をしてくれた。

傍にいたお兄ちゃんの動きに少し目を奪われ始めた僕を両手で抱き上げ、「ほらっ、お兄ちゃんがご飯の用意をしてくれてるよ。いっといで」と、僕を床の上に降ろしてくれた。

リビングの片隅に用意された、シチュー仕立てのドッグフードをペチョペチョ食べ始めると、傍らにいたお兄ちゃんが、

「うあっー、食べてる食べてる」と、自分の仕事の成果に誇らしげな様子で、僕の食べっぷりを見入っていた。

「さあっ、じゃ、こっちも夕飯にしましょ」と、お母さんが言うと、3人はダイニングテーブルにつき夕飯が始まった。

いつもの様にリビンクのテレビはついていたが、この日のテレビはあまり見てもらえなかった様である。

僕はお父さんの運転する車の助手席のTさんが用意してくれた小さな段ボールの中にいた。

Eちゃんには自宅の倉庫へ荷物を取りに行くついでのある事も伝えてあったらしく、車は詰所から直接園内を出た。

15分程のドライブの間も、その間中差し出してくれているお父さんの手をしゃぶり甘えていて、兄弟が傍に居ない事にも気がつかなかった。

お父さんの指は詰所のスタッフの人達のゴツゴツしたのとは違って、もう少し柔らかく、暖かさも直ぐに伝わる母犬の何かに近い物であった。

「ちょっとまってね」と、お父さんは差し出してくれていた手を引き抜き、熟れた手つきで車をバックさせ駐車場に入れた。

「さあっ、着いたぞ。ほらっ、おいで」と、助手席の僕を両手で抱き上げ、胸元に収めてから車から降りたお父さんは、僕に辺りを見させる様にゆっくり入り口のドアの方へ近づいて行った。

2年ほど前に建て替えたばかりの、新築のデザインハウス、ここがお父さんの家なのである。

30坪余りの狭い敷地に一杯一杯に建てられた今風の家である。

7、8メートルの道路とそれの半分ぐらいの脇道の角地で、敷地の形が三角に近い形をしている為、道路面だけは広く、駐車場が広い道路側と裏の狭い道路側の両方にあった。

僕は周りの事は気にならず、居心地のいい胸元でお父さんの首から顎の辺りをペロペロし始めた。

 

「よーし、よしよし」と、又甘え始めた僕をたしなめながら鍵を開けドアを開いた。

2間ほど奥の階段から、駐車場に車が止まった音に気が付き、ドアの鍵を開ける音にせかされる様に出てきたお母さんが、

「あれっ、どうしたの、お帰り。」と、まだ帰宅時間には早すぎる事だけに驚きながら、お父さんのお迎えに出てきた。

そして、お父さんの胸元で何やらキョロキョロと動く僕を発見し、驚きは最高潮に達し、少し怒り口調から始まる言葉で、

「なにっ、連れて来ちゃったの。ええっ、ダメだって言ったのにイー。」と、お母さんは語尾を伸ばしながら、優しい口調に変わらせたかと思うと、そうしなければいられない風に両手を僕のほうへ差し伸べてきた。

お父さんが胸を押し出し気味に僕を前に出すと、お母さんの差し出された両手の中に、僕はすんなり移りお収まった。

 

僕を両の手で抱き上げ胸元へ引き寄せお母さんは「あれっ、この子ちゃんと靴下はいてるじゃない。」と、毛並みの特徴を見い出しながら、今度は顔の前へ大事そうに両手両腕で作った抱き籠の中に収めながらつきあげた。

頭の先から胴体まで20センチ余りの小さな僕の身体は、その抱き籠にスッポリ収まっていた。

僕はお母さんが両手だけで脇の下を抱え上げるのでなく、両腕まで添えて抱き上げてくれるその愛情が、とても安心できて居心地良く嬉しかった。

思わずお母さんの口元をペロペロし始めると、「そうっ、嬉しいの、よーし、よしよし、いい子だねえ」と、出かけるつもりが無かったせいか、化粧っけ無い顔の鼻の周りまで舐めさせてくれた。

お母さんはそのまま少し後ずさりをして、お父さんを招きい入れた。

お父さんは玄関の上がり口を『シメシメ』風な顔つきで上がり、お母さんの両手の中にいる僕の頭を撫でながら中二階のリビングへの階段を上がっていった。

お母さんは僕を抱いたまま、お父さんが閉め忘れた鍵を閉め、お父さんに続いてリビングヘ上がってきた。

 

そこは6畳程のリビングスペースと8畳程のダイニングキッチンのあるリビングダイニングであった。

お父さんはリビングのソファーに腰を下ろしながら、僕とお母さんを待った。

お母さんは何時もの座り順なのかソファーの手前の席に僕を抱いたまま並んで座り、僕を膝の上に両手を添えたまま座らせ、改めて僕の顔を見ながら「可愛い顔してるねえ、優しそうな、いい子だねえ」と、盛んに誉め言葉を並べ始めた。

いかにも最初に「ダメだって言ったのに」と、言ってしまった言葉をかき消そうとしているかの様であった。

そんな様子を見計らってか「どうよ」と、なんとも言いようの無い問いかけをお父さんがしてきた。

「どうもこうもないわよ、だって見ちゃったらこうなると思ったから、見に行かないって言ったのにー」と、お母さん。

「じゃあ、なんとかなるう」と、又分かりにくいお父さんの受け答えに

「しょうがないでしょう、だって見ちゃったんだからー、それに2、3日で保健所へ連れて行かれるんでしょ。」と、少し落ち着いてその時の状況を思い出しながら話し始めた。

「そう、オレも見たらこうなるかと、行かない様にしてたんだけど、Eちゃんに言われてつい行っちゃたらさ、この子がヒョコヒョコ出てきて、なつくもんだからしょうがなくてさあ」と、さっきドアを開けて入ってきた時の、ほんの少しの心配もすっかりなくし、実はお父さんもお母さんと同じ気持ちだったと告げた。

「そうねえ、やっぱりこんなに可愛いの見ちゃったらどうしょうもないわねえ」と、お母さんは黙って連れて来ちゃったお父さんをすっかり許していた。

 

「おいっ、ここの子になっても良いって、良かったなあ」と、お父さんはお母さんの膝から僕を取り上げ、顔の前へ抱き上げ僕の目を見た。

お前もこれで良いのかと、無言の問いかけに僕は、ただただお父さんの口の周りをペロペロしていた。

「お父さん、気をつけなさい、まだばい菌が一杯かも知れないんだから」と、自分もそうさせてしまっていた事への照れ隠しの言葉を、お母さんが言った。

そして、「どうすんの、どこで飼うの」と、次の段階の部屋割りの相談が始まった。

「小さいうちはしょうがないからここで飼うか」とお父さんは前もって描いていた構想を持ちかけた。

「そうねえ、でもオシッコとかウンチとか大変よ」と、お母さん。

「とりあえず新聞紙でも敷いておくしかないか」と、大雑把なお父さんは「それより、名前はどうする」と、お母さんに問い掛けた。

「ああ、そうねえ、そうかあ、名前ねえ。」と、飼うとなるとちょっと面倒かも知れない色々な事への思いはかき消され、一生懸命それらしい名前を思い、口ずさんでみるお母さんである。

 

「リキ、これはどう。リキ」と、お母さんはすっぱり言ってのけた。

「おおうっ、リキか、うん、いいねえ。」「おいっ、リキ。お前は今日から『リキ』だ。良いねッ」と、

一旦膝の上に下ろしていた僕を又抱え上げ、目を見てはっきりとお父さんは僕に伝えた。

そして、「ようーし、これで今日からここが『リキ』お前の家、どうだっ」と、フローリングの床に降ろし自由にさせてくれた。

フローリングの床にちょっと戸惑った僕は、少し滑り気味にそれでも落ち着いておどおどすることなく、このリビングダイニングを探検し始めた。

リビングの片隅には、天上まで届きそうな観葉植物の「ドラセナ」が、新しく家族に加わった僕を歓迎してくれていた。

僕がその下の方まで行くと、後ろからソファーから腰を降ろし床にしゃがみこんだお母さんが「リキ、こっちへおいで、リキ」と呼びかけていた。

何度も聞こえる「リキ、リキ」の声に反応し後ろを振り向き、直ぐにお母さんの差し出す両手の方へ少し滑りながら駆け寄った。

「ようーし、よしよし、リキ、来たか。分かったのか、リキ、よく出来ました」と、お母さんは抱き上げ頭を撫でながら、満足そうにしていた。

 

そんな様子を見届けたお父さんは「じゃっ、そろそろ荷物を積んで戻るよ。じゃあねえ、リキ」と、仕事に戻ろうとするおとうさんに、

「うーん、そう、分かった、じゃあ」と、もう少し僕と三人で遊んでいたい気持ちを持ちながらの生返事をしたお母さんは、僕を抱いたまま玄関までお見送りをしにお父さんの後を追った。

「じゃあね、リキ、おりこうにしてるんだよ、もうすぐお兄ちゃんも帰ってくるからね」と、僕の頭を撫でながら、お父さんが居なくても遊び相手がいてくれそうな言葉を残し、後ろ髪を引かれる思いを断ち切る様に、玄関のドアから出ていった。

 

リビングダイニングに戻ったお母さんは「さあっ、大変だ、リキ。ちょっと降りててね」と、優しく床に僕を降ろし片隅にある古新聞置き場から古新聞の束を取り出し、リビングの周辺部分に三枚重ねぐらいで敷き詰始めた。

そんなお母さんにまとわり付き、甘える僕に「ダメよ、ほらっ、ちょっと待っててね」と、言いながら余計に増えた仕事を、お母さんはむしろ楽しそうに続けた。

敷き詰められた古新聞の上は、フローリングの床より滑り方はすこし少なく、歩き易かった。ただ重なった部分の少し持ち上がった所で足を取られることがあり、よろけたり、ひっかけてきれいに敷き詰められている物を『ガサガサ』と折り返して踏んづけてしまうのだ。

「あららっ、大丈夫、リキ。まだちっちゃいから引っかかるか、可哀想に。」と、きれいに敷き詰めた作業の邪魔をする僕を叱る事も無く、

「はいはいっ、気をつけてね。」と、僕の頭を撫でながら、少し乱れた古新聞の敷き詰めを直すお母さんが、よろける僕の様子に

「あれっ、疲れちゃったかな、おねむになった。ああ、そうだお腹も空いたかな」と、気をもみ始めた。

「そうだよね、ゴメンゴメン、ちょっと待っててね。」とお母さんは慌ててダイニングキッチンの方に行き、戸棚から何かを取り出し、冷蔵庫から又何かを取り出し30センチ程のトレーを持ってきて、古新聞が敷かれたリビングの片隅に置いた。

トレーには白い器が2つ、一方にはミルク、もう一つにはお水が入れられていた。

西側にある幅50センチ程の縦長の窓はここだけレースのカーテンも開け放たれ、そこから入る日の光で、この時間はそこだけが暖められているのであろうフローリングの床の板のぬくもりがとても気持ちよく、トローンとした目で寝そべっていた僕に、お母さんは、

「あれれっ、おねむが先かな、でも喉も乾いたでしょう。リキ、こっちに来てミルク飲みなさい。」と、声をかけて来た。

僕は又『リキ』に反応し首を持ち上げた。すっかり『リキ』と言う響きに馴染んだようだ。

 

ガツガツした様子もなく立ち上り、トレーの前へ行き、ミルクの方へ舌を出してみた。

余り乾きも空腹も感じていなかったのに、ゆったりとした気分で飲むミルクは、飲み始めるととても美味しく、器の半分ほど入っていたものを殆ど飲み干してしまった。

ちょっと突き出た鼻の周りについたミルクのとびちりを、舌で舐めまわしながら、満腹そうな様子を見せる僕に、お母さんは用意したミルクの量と僕の小さな身体を比較しながら「よく飲んだねえ、リキ、えらいぞっ」と誉め言葉を投げかけてくれた。

そして、「さあっ、じゃあ、今度はお昼寝だね」とソファーの方へ後ずさりし、腰を下ろしながら、

「はいっ、リキ、おいで、こっちこっち」と、両手を下に差し出し、僕を手招きしてくれるお母さんの元へヒョコヒョコと近づいて、ジャレる様子も無くその手にすっぽり収まった。

お母さんは僕を抱き上げ、ソファーに深く腰掛けた太ももの上に乗せ「さあっ、いいよ、リキ、ねんねして」と、この上ない柔らかさと暖かさを兼ね備えたベッドを提供してくれた。

なんとも言えない安堵感と安らぎは、直ぐに僕を夢の世界へ運んでいってくれた。

スヤスヤと気持ち良さそうに眠ってしまった僕を満足そうに見下ろしていたお母さんは、手持ち無沙汰になり、ソファーの傍らにあったリモコンに手を伸ばし、テレビのスイッチを入れた。

そして何時もの半分ぐらいの音量で午後のワイドショウを見始めた。

そして、絞った音量でも僕の眠りを妨げないか気にしながら、僕の寝顔をうかがった。

僕はそんなお母さんの素振りには気もつかず、ただ優しさだけが肌を通して感じられ、更に深い眠りについていった。

昼休が終わりそうな時間であったが、Tさんはまだ僕達の近くにいた。

いつもの軽トラックの後ろに1台の車が止まった。

「社長、やっと来てくれたの。」と、Tさんが声をかけた。

「Eちゃんが何匹か面倒見てくれそうじゃないか、良かったなあ。」と、お父さんは少し良い方向に向かい始めた里親探し問題を慰めていた。

「ええ、そうなんです。でもまだまだ居ますから。」と、Tさんは僕達の方へお父さんの目を誘い「この子達なんです」と僕達をお父さんに見せた。

そして、「ええっ、どれどれ」とお父さんが僕達に近づいて来た。

「おお、おお、お前達か、本当だ、まだ小さいねえ。」と、腰をかがめながらゲージから2メートル程のところにお父さんが近づいて来た。

僕達ははここの環境にもすっかり慣れ、ゲージの中のボロ毛布の上でジャレ合うことも多くなっていた。

ちょっと前までその中ではしゃいでいた僕は遊び疲れ、Tさんが傍にいることで、たまたま開いていたゲージから外へ出ていた。

そこへ近づいて来た、優しそうなメガネの男の人がいたのだ。

ここ2、3日の間に慣れ親しんできた、少し土の香りのする作業着姿でなく、セーターの上に赤いジャンバーを羽織った壮年のお父さんだ。

軒下の日が差し込む所にしゃがみ両手を低く前に出し、僕を手招きしている。

兄弟の中で一番先に、この来訪者に気がついた僕は、いきなり駆け寄る分けでもなく、その状況をうかがうわけでもなく、それでも確実にヒョコヒョコと近づき、低く差し出された両手の中にすんなり収まった。

 

僕とお父さんの運命的な出逢いは、正にこの時だったのだ。

 

「おおっ、来たか。お前が一番に来たのか。そうかそうか、よしよし」と、僕を抱き上げた。

抱き上げるとお父さんは僕を胸元に引き寄せ片手で抱きかかえ、もう一方の手で頭から背中の辺りを優しく撫でてくれた。

触れた時少しひんやりする作業服と違い、お父さんの胸のセーターのむくもりはとても心地よかった。

嬉しくなり僕は直ぐ眼の上のお父さんの首から顎の辺りをペロペロ舐め始めた。

「おおっ、どうした嬉しいのか、そうかそうか」と、僕の方に眼を落とす。

顔が下に向けられたので、僕は更にお父さんの口の周りから鼻までペロペロ舐め続けた。

暫くお父さんはさせるがままにしてくれた。

「おいおい、そんなに気に入ったか、そうかよしよし」と、ちょっと僕をたしなめながら、胸元にお腹を上に片手で抱き、

「おーうっ、お前は男の子か、そうか」と、僕の観察を始めた。

「あれっ、こいつ白い靴下はいてるね。へえーっ、可愛い顔してるねえ」と、傍にいるTさんにも話し掛けた。

後で分かった事だか、この足の半分位から毛並みが白くなっているのは雑種(MIX)の証らしい。

Tさんは「いい子達でしょう」と、自慢気に答えた。

二人の会話か進み始めた頃には、ゲージで遊んでいた兄弟達も集まり、人懐っこく甘え始めた。

お父さんは僕を胸元に片手で抱きかかえたまま、もう一方の手で兄弟達をあやしていた。

「Eちゃんが決めそうなのはどの子なの」と、お父さんが聞くと、

「何か女の子がいいらしく、この子とこの子です。」と、Tさんは妹達を抱き寄せながら答えた。

「へえーっ、あっそう、なんだお前はまだ行く先が無いんだ。」と、抱きかかえたままの僕に眼を落としたお父さんは、今度は両手で僕を抱き上げ改めて観察をし始めた。

そして、僕を優しく下に降ろし、今度は弟を引き寄せ「お前は少し小さいけど、元気そうだなあ」とか、次にはお兄ちゃんを引き寄せ「お前は少し大きくてガッシリしているなあ」と、男3兄弟の比較をし始めた。

その様子にTさんは「ねえ、社長お願いしますよ、可愛いでしょう」と、先輩への甘え口調で話しかけた。

「そうねえ、こうやって見ちゃうとねえ。だって、後2、3日で連れていかれるんだろう」と、お父さんの気持ちは確かに動いていた。

「ようしっ、じゃっ1匹面倒みるか。でもカミさんがどう言うか分からないけど、とりあえず連れていってみるよ」と、僕達3兄弟に目を落としたままTさんに告げた。

Tさんは間髪入れず「どの子にします。」と、僕達男3兄弟を囲むように差し出した。

お父さんは改めて見るまでも無く、既に決ってたかのように僕を抱き上げ「最初に寄ってきたお前かな、靴下も可愛いし、こう言うのも縁かも知れないしなあ」と、又胸元に引き寄せてくれた。

又セーターのぬくもりが心地よく伝わってきた。とてもホッと出来るやさしい揺り篭のような胸元であった。

30分ぐらいでEさんがお店の方に戻って来た。

「すいませんでした。」と、先ず自分が持ち場を離れた事をあやまる言葉をお父さんに伝えながら、

「可愛いですよ、まだ小っちゃくて」と状況説明をし始めた。

お父さんは「でも君んところじゃだめなんだろう」と、ニュースを知らせなかった理由の説明も兼ねた言葉で答えた。

Eさんは知らせてもらえなかったのが自分への思いやりてである事を分りつつ、

「ええ、でもちょっと欲しがっている人のあてがあったもので」と、自分では飼えない子犬の元へ駆けつけた理由の説明を付け加えた。

「メス2匹ならなんとか探せるんですが・・・・。あと3匹でしょ」と、全部面倒見たいとでも言いたげなEさんである。

さすがに犬好きの彼女、こんなに可愛い生まれて間も無い子犬達を、絶対処分なんて考えられないと思い始めていたのだ。

僕達の里親探しの頼もしい見方が出来たのらしい。

 

Tさんも毎日顔を会わすわけでもないEさんの事は、必死になりすぎて思い浮かばなかっつたのであろう。灯台下暗しだったのだ。

落ち着いて考えて見れば、園内にはアルバイトも含めれば常時100人以上は居るスタッフの中で、犬に関係した学校に通い、将来好きな犬に携わる職業につきたいと考えている人間など、そう居るものでも無いと思えるその人が、ここに居たのである。

お父さんは高校生の時から2年以上も勤めてくれているアルバイトのEさんを、家族同様に付き合い、可愛がっていた。

その思いは犬が大好きでありながら飼えない、彼女自身の事情のことばかりを優先させ、ひとつの判断を誤らさせていた。

彼女の周りには犬好きの人が沢山いるそんな環境があったのである。

もっとも犬好きの人が直ぐに犬を飼える分けでもない。

住まいの事情、家庭の事情、自分自身の体質など、愛情や思いがその環境を覆い尽くせ無い事もしばしばある。

「明日学校に行って確かめて来ます。」とEさんは、かなりの可能性のありそうな言葉をお父さんに伝えた。

「あっ、そう、そりゃあ良かった。Tさんも喜んでいたろう。」と、次への展開を想像もせずにお父さんは答えた。

二人の会話もこれで終わり、それとなく30分程前の仕事の続きへと気持ちが戻りかけた時、

「社長の家は駄目なんですか?」と、Eさんはすっかり里親探し片棒を担がされたかのように会話を戻した。

「ええっ」お父さんの頭の中はさっきTさんが「社長、貰ってくれない」と言った時点に逆戻りした。

とことん困り果てているTさんの様子に、どうしたものか、少しでも役にたってあげられるのか、何か手立てはあるのか考え始めていたのだ。

「ええっ、ウチかい、立て替えた時庭もつぶしちゃったしなあ。」と、お父さんは何かを頭に浮かべて話している様であった。

建て替える前までホンの小さ三角形の4坪程の庭に、芝生を植え刈り込みを丹念にし、夏など子供のビニールプールの絶好の遊び場になっていた所を、コンクリートの駐車場にしてしまっている事を思っていた。

あそこなら犬の1匹ぐらい飼えたのになあと想像していたらしい。

お父さんも、お母さんも子供の頃に犬を飼っていた経験があり、その可愛さや犬と一緒に暮らす喜びは、大変な世話以上に何にも変えがたいものがある事は知っていたのだ。

「部屋はフローリングですか?裏庭は?」と、Eさんは、お父さんの家族が犬好きである事を悟ったかのように、問い詰めて来た。

「うん、まあ、畳の部屋はおばあちゃんの部屋だけだけど・・・。ええっ」と、お父さんは又考えてもいなかった事を頭に描き始めていた。

自分の子供の頃飼い犬は外、犬小屋で飼うものと相場は決まっていたのだが、最近ではフローリングの部屋の多い家が増え、室内で一緒に暮らす室内犬のブームにはなって来ていたのだ。

「ならっ、部屋でも飼えるじゃないですか、いいなあ」と、Eさんは自分なら絶対そうしますとでも言わんばっかりに決めてかかって来た。

「本当に可愛い子達ですよ、社長も見て来て下さいよ」と、Eさんが続けた。

お父さんの心は動き始めていた。Tさんに頼まれた時に思い始めたのは、誰か飼い主を近所だったり、お母さんのお友達だったりの中にいないか探して見ようと言う、里親探しの手助けであった。

それが何時の間にか、近しい二人が一生懸命にこの子犬達の先短い運命を、なんとしても救わんとしている事にすっかり共鳴し、我が家でも一匹はなんとかしてやろうと、思い始めていたのである。

「そうだなあ。カミさんに聞いてみるか。」とお父さんは次の段階へ踏み出した。

「そうですよ、奥さんも犬が好きなんだし」と、ここのとろの閑散期には、日曜日だけは来ていっしょに働いているお母さんの犬好きの性格も見ぬいていて、更に強気になって来たEさんである。

 

お父さんは思い腰を上げる風でもなく、意を決する風でもなく、電話をかけ始めながら「カミさんに聞いて見るか。」と、Eさんと目を交わした。

事の成り行きが自分の思惑通りなのか、Eさんは後押しする目つきをお父さんに投げかけ、何かホッとした様子を見せていた。

「もしもし、あのさあ、うまれたばっかりの子犬らしいんだけど飼わない?」

「なにいっ、子犬?棄てられていたのっ」

「うん、なんかこの間の成人式の日に棄てられていたらしいんだ。5匹いっしょに」

「ええっ、5匹も、小さいの?」

「まだ見てきてないんだけどさあ、T君が面倒見ているらしいんだ。」

「ええっ、まあっ、可哀想に、何処で、詰所の所で?」

「ああ、そうらしいんだよ。今もEちゃんが行って見て来たんだけど、たまんなく可愛いって」

「そうっ、Eちゃんは専門家だもんね。でも、ウチは駄目よっ、だって誰が面倒みるの?皆仕事もあるし、可哀想だけど」

「うーん、そうだよねえ。そうそう、誰か友達とか心当たりはないっ?」

「えーとっ、そうねえ今ちょっと思いつかないけど。でも、ちょっと見たい気はするわねえ。」

「いや、まだオレも見てきてないんだけどさあ。見に来るっ?」

「うーん、でも止めとくッ。だって、見ちゃったらさあ・・・・」

「そうねえ、じゃあ、探している人いないか考えといてよ」

「うーん、分った。じゃあねえ」

お父さんは、『やっぱり、そうだなあ』と、自分の思い巡らした事が簡単でない事に気がつきながら電話を切った。

犬は好きでも本気で育てるには、散歩から餌の用意、愛情の注ぎ方からしつけまで、飼いっ放しとはいかない性格の家族であることが分かっていたのだ。

お父さんの言葉しか聞き取れないEちゃんは、犬好きのお母さんの言葉を想像しながら会話を成り立たせていた。

「奥さん見たがっていたでしょう。」と、より良い方への事の成り行きを期待する言葉を投げかけて来た。

「うん、でも二人で仕事に出る事があるんだから、ちょっとねえ。」と、お父さんは飼いたい気持ちもあるんだけど実際は難しいそうだと思っている事を伝えた。

お父さんの気持ちが少し翳り始めたのを見てとると、

「社長も見て来てくださいよ」と、何か自信ありげな様子でEちゃんはお父さんを促した。

「そうだなあ・・・・、それじゃあ、ちょっと見てくるか」と、お父さんはわりと近くの従業員用の駐車場へ行き、車で詰所へ向かった。

 

僕達がここに来て四日目、あの日もそうだった様に良く晴れた日であった。

寒さは一段落したのかきょうは空気の冷たさはそれ程感じない。

例によって遊戯機の始業点検の機械音が、それまでの高原のような静けさを打ち破り始める。

軽トラック、ワゴン車、作業用トラックが3、4台こっちの方へ近づいて来る。

他の車は詰め所の横の車寄せに向かうが、軽トラックだけは直接この資材置き場前に乗りこんで来た。

Tさんと年配のAさんである。

Tさんは牛乳パックの入ったビニール袋をぶら下げ降りてきた。

Aさんは車から降りるなり、昨日のミルク入れにしていた鉢カバーを取り、すぐ先の水道の蛇口で、水の冷たさも感じない様子で手早く洗い、ゲージの傍へ持ってきた。

「おぃっ、おまえたち元気だったか。」と、Tさんは、ミルクパックの口を開けながら僕達に声をかける。

その下には今Aさんが洗って来た鉢カバーが用意されている。

3分の1ぐらいをそこへ『ドクッ、ドクッ』と流し込む。

Aさんは優しそうな年老いた目で僕達に近づき、ゲージの一方を開け放つ。

アウンの呼吸と言うか当たり前の作業手順と言うか、無駄の無い何時も通りとも思える役割分担で、朝ご飯が用意される。

既に目覚めて少し時間が経っていた僕達は、尻尾を振り振り甘えながらミルクに群がる。

美味しそうに飲み干す僕達の傍で二人が目を細める。

そうこうしている内に、詰所で先に着替えを済ませたスタッフの人達が降りて来て、僕達の様子をうかがう。

二人三人と着替えを済ませた人達が揃うと、『交替』とばかりにTさんAさんが着替えに詰所へ上がっていった。

4、5分で下りて来たAさんに少し遅れてTさんも下りて来た。

Tさんの顔つきが、さっき僕達にミルクを与えてくれていた時の柔和な笑顔と少し変わっていた。

上でN主任に何かを告げられたのか、告げられないまでも顔を会わした事で、そのままになってしまって、遅々として進んでいない僕達の里親探しの件の期限を再認識させられたらしい。

開園15分前くらいになると「さあーてっと」とスタッフの人達が夫々の仕事の持ち場へと向かっていった。

Tさんは少し遅れて「よしっ。」と何かを期したかの様に立ち上がり、Aさんに「じゃっ、お願いします。」と声をかけ軽トラックで出て行った。

 

昼休み前にTさんは困った時、わりと気軽に相談事などをしに来ていたお父さんの所へ行った。

お父さんのお店は遊園地の正門からエスカレーターつきの275段の大階段を一気に上り詰めた、下界とは80メートルほどの標高差のある、多摩川の河川敷の向こうに都心を一望出来る、それは見晴らしの良い場所にあった。

玩具を中心にファンシー雑貨を取り扱う中央売店である。

その日は、トリマーの専門学校に通うアルバイトのEさんと二人の店番であった。

お父さんは店の方はEさんに任せ、奥のパソコンで事務処理をしていた。

「社長居る?」と顔馴染になっているEさんに声をかけTさんがお店に入って来た。

奥とは言っても狭い店、お父さんもTさんの声を聞きつけ顔を出した。

『居てくれて、ああ良かった』という顔つきでいきなり、

「社長、貰ってくれない。」

「えっ、ああ、あの5匹の子犬かあ」と、ニュースでは知らされていたが、里親探しの最終ターゲットとして自分のところへお鉢が回ってくるとはと、びっくり気味のお父さん。

「まだ一匹も貰い手が無いんだア」と本当に心配そうなTさん。

「ああそう、可哀想に。いつまで置いてけるんだよ」

「週明けには保健所が来るらしいんだ」と更に顔を曇らせるTさん。

彼の顔がいつものにこやかな顔で無い二人の会話に、それとなく耳を傾け、話の内容を汲み取った、Eさんが、

「5匹もですか?まだ小さいんですか」といきなり会話に飛び込んできた。「うん、まだ生まれて間も無いんじゃ無いかなあ」「あっ、そうだEちゃんは確か犬の学校行ってたよねえ、なんとかならない。」と、急に開けてきた里親探しのテグスの感触をぐいぐい引き寄せた。

「ねえ、見に来てよ、今すぐ、昼休でしょ」と、今度は急に思いついた難問の解決策の手がかりを、その感触を無くすまいと必死にくらいつくTさん。

「ええっ、可愛いでしょうねえ、でも5匹でしょ」と、少しあてがありそうな口調でEさんが答えた。

「全部じゃなくていいんだよ」と必死にくらいつくTさん。

「社長、ちょっと見てきてもいいですか」と、かなり乗り気の様子で、Eさんは今度はお父さんに話しかけた。

「ああっ、いいよ、店は見てるから、行っといで。」と、お父さんは後輩の様に思っていたTさんが困り果てている様子を、少しでも助けてやりたいと思っていたところへの思わぬ展開に、進んで彼女を送り出した。

実はお父さんは僕たちのニュースを聞いた時、すぐにこのEさんの事を思い浮かべていた。

犬が好きで育てたいが住まいの事情が許されず、許可になる猫を飼い、それも犬の様にしつけていた。

どの犬の飼い主も「これが毎日なので、なかなか大変で」と、愚痴をこぼしながらも何処か自慢気で、うれしそうなリードを着けての散歩を、彼女は飼い猫としていたのだ。

そのことが評判になり、あるTVのお昼のワイドショウにも出たくらいである。

休日を中心に週2、3回出勤してくる彼女に、可愛い子犬が手に入りそうな話は、本当に飼いたがっているが飼えなくている彼女だけに、かえって酷かなと、敢えてニュースも伝えていなかったのである。

きょうも冬晴れの風の無い、日向ぼっこにはもってこいの日である。

僕達がここへ来て三日、この園芸課に勤務する10人余りの人達共すっかり慣れてしまい、昼休みは勿論この資材置き場近くで誰かが仕事をしている時はゲージの一部を開け放たれ、周りを自由にうろつく事が許される様になっていた。

Tさんが用意してくれる餌やミルクだけでなく、従業員の人達がお弁当の中から「これなら食べられるでしょう」とか、「これは食べても大丈夫でしょう」と僕達に分け与えてくれる様にさえなっていた。

たった二日の間に僕達の愛苦しさは皆の心を和ませ、5匹一緒であった事も幸いして、その場に何人集まっても夫々が夫々をあやし、触れ合えるほのぼのとした雰囲気を作り、人気者になっていた。

もともと昼食後の休憩時間を、冬の日向ぼっこをしに何人かのスタッフが集まってくる場所ではあったのである。

そんな昼休みのスタッフ同士の取り止めの無い会話にも中々打ち解けにくい、物静かな感じのMさんも、彼の何時もの定位置となっている資材置き場の端の方に、僕達の1匹がヒョコヒョコと傍に近づいて行くと、「なんだ、どうした、こっちへ来たのか」と、抱き上げ地べたに座り込んだ膝の上に乗せ「ご飯は食べたのか、よーし、よし、よし」と、頭を撫でながら、何時もに無い表情で休憩時間を過ごすのである。

そして、昼休みが終わると「さっ、じゃっ、又後でなッ」とゲージに戻し、

「Aさん、ゲージは閉めとく」と、この場所の近くでの仕事の多い年配のAさんに、僕達の面倒を見ていられるかの確認を取り、夫々のその日の仕事場へ向かって行く様になっていた。

こんな様子を、僕達をここへ連れてきてくれた当のTさんも何故か自慢気で満足そうに見ながら、自分も仲間に入っていた。

 

元々ここのスタッフは園内中の植栽を全て受け持ち、育成から植え込み、植え替え土壌管理までを担う、『花と緑』がキャッチフレーズのこの遊園地の、なくてはならない重要な部署の従業員なのである。

とはいえ、仕事柄皆の制服は所謂ナッパ服で、ハイシーズンが迫ろうものなら例え雨嵐の荒天でも、園内各所の営繕の仕事も含めた外仕事を余儀なくされる、園内の汚れ仕事の請負グループなのである。

お互いの仕事の技量、得意技などを夫々に認め合う、ある意味の信頼グループなのです。

 

都立の園芸高校という、一風変わった高校の出身者であるTさんは、学んだ知識を生かせ、自分の仕事の成果をより多くの人に見てもらいたいと、この職業を選んで来たのである。

背丈は180センチ足らずのわりとガッシリした体格の大男で、学生時代にはラグビーでもやっていたような体つきをしていた。

彼が新入社員でこの遊園地に配属になり、その時の園内の各テナント業者への挨拶回りの際、余り知られていない自分の出身校の事を変に詳しく話し、懐かしんでくれたテナントの社長がいた。

「えっ、あの世田谷の園芸高校。あそこのラグビーグランドは素晴らしいんだよねえ。私は何度もあのグランドで定期戦の試合をしたよ。」

と、何か学校の先輩でもないのにTさんを、久々に後輩にでも会えたかのように話しかけたのである。

Tさんのがっしりした身体を改めて見ながら、「で、君もラグビーやってたの」と、問いただす社長に、「いいえ、僕は、でも友達は沢山やってました。」

新入社員のテナントへの挨拶周りと言うのは、遊園地本社の社員がテナントとの係わり合いをどうすればいいのか知る術もなく、通り一片の挨拶で終わらせるのが常通である。

時間が経ち、一緒に何年も一つの敷地内で仕事をする間には、夫々の立場夫々の会社の枠を超えた付き合いも生まれるのだが、Tさんは何かこのテナントの社長のことだけは特別に親しめる印象を持ったのだ。

以来園内で顔を会わすたびに、何か親しい先輩にでも会ったように、仕事の話しや趣味の話しを心置きなく出切る様になっていった。

当然の様に僕達の事もその日の中に、ニュースとして伝えに行っていた。

 

そして、最初は単なるニュースとして僕達の事を知らされた、このテナントの社長こそ、その後の16年以上もの長い年月を共に暮す事になる、僕のお父さんなのである。

僕とお父さんの出逢いは、世の中の恋愛や友情が様々な運命の糸の絡み合い、引き合いによって産まれてくるものと同じように、偶然と偶然・必然と必然がもたらした、世にも素晴らしき巡り合いなのである。

番外  『一袋の天然石』

心温まる素敵な家族の3連走を見届けた後、お父さんは店に戻り裏のパソコン室で色々と思いを巡らせた。

障害を持たれたご両親と、あの素直な優しい僕、日々の生活の中では様々なご苦労も多々ある事でしょう。でも、今日見せてくれた様な素晴らしい家族愛で困難にも打ち勝ち、生きて行くことの大切さとその喜びを、夫々の心で感じとっていられるのだろうと思えた。

さっきその僕がこの店で天然石採りをやった時も、きっと「これはお父さんに良い石、これはお母さんに良い石」と、一生懸命に探し出し自分へのお守り石も見つけてくれたのだろうと察しが付く。

何年か前にこの天然石採りのことをSNSに書き込んでくれたお父さんがいた。

「今日久しぶりで子供を連れて遊園地に行き、そこで天然石採りと言うのやったのですが、幼い我が子が『お父さんに良い石を探すんだ』と、それはそれはひっしになって、やっと見つけ出し『あったよ、お父さんこれこれお酒を飲むお父さんには、これが良いんだって。見つかってよかったね』と、ホットした顔を見た時、こんな幼い子が私の事を本気で心配してくれていたのかと、ちょっと感動させられました」というのである。

このSNSを読んだ時も『一袋の天然石』が作るドラマを見せられた気がしたお父さんだが、今日は更にその後のドラマまで確認させてもらった様であった。